医学部誕生物語

第16話 私立医学校と「医家書生」~私立医学校の興亡 (1) ~

落語の「死神」は、破産した男が死神に勧められて医師の看板を掲げることから始まる話である。この落語は初代三遊亭円朝の作らしいが、いきなり医師を名乗ってしまうのは落語の中だからからだとは言え、江戸時代までは医師になるのは基本的には自由であった。

第12話 公立医学校廃止の諸相(1)~共通の要因とそれぞれの事情~

第9話では公立医学校が全国に多数設立され、それが明治20年前後に一斉に消え去ったことと、その理由を述べた。また第10話では廃校第1号とも言うべき埼玉県医学校の事例を紹介した。今回はやはり廃校になった公立医学校のいくつかの例を紹介しよう。

第11話 公立医学校と鷗外の『雁』〜「明治十三年の出来事」の意味〜

参謀本部陸軍測量部が明治9年から17年にかけて行った測量によって作成された『五千分一東京図測量原図』には二つの「東京大学」が記されている。ひとつは神田錦町で、現在で言えば共立女子大学の高層校舎の向かいにある学士会館から南、日本橋川までにかけてのエリア。もうひとつは現在の東大本郷キャンパスであり、こちらは「東京大学醫学部」とある。

第10話 公立医学校廃止の第1号は埼玉県医学校〜埼玉・群馬・栃木の特殊な事情〜

前回は公立医学校のほとんどが廃止された背景には、医学校にかかる莫大な経費と、松方デフレによる地方経済の疲弊があったことをみた。松方正義が大蔵卿に就いたのは、明治十四年の政変で下野した大隈重信の後任としてである。緊縮財政の結果デフレ経済、いわゆる「松方デフレ」となったのは明治10年代後半である。

第9話 明治初期、全国に公立医学校があった〜陸続の設立と忽然の消滅〜

いままでは官立(国立)医学校の成立と再編について述べてきた。今回からは公立の医学校の明治前半期における設立と消滅の歴史を述べる。公立の医学校はまずは藩校として設立された。江戸時代、多くの藩校において医学も教授された。当初は漢方医学のみだったが次第に蘭方医学も教授されるようになった。また医学教育だけを独立させて医学所とするところもあった。

第8話 大阪・長崎の医学校の廃止と東大独裁体制の完成〜ドイツ医学の全国普及〜

明治5年の学制発布により、大阪の医学校は官立の「第四大学区医学校」となった。ところがそれからわずか2ヶ月後の明治5年10月2日、「第四大学区医学校」は突然廃止されてしまう。その理由は経費節減とか、緒方惟準が陸軍軍医学校に転出したから、などと説明されるが、実際は、教育レベルの学校差をなくすため…

第7話 適塾から仮病院、大阪医学校へ〜大阪大学医学部の起源〜

いままで東京と長崎の医学校について述べてきたが、明治初期に設置された官立医学校はもうひとつあった。それが大阪大学医学部の起源である。大阪大学と直接的な継続関係はないが、大阪であるからには「適塾」から語り始めることにしよう。

第6話 ミュルレルの着任と相良知安の晩年〜医学教育体制の整備〜

医学校兼病院は明治2年6月大学校分局となり、12月には大学東校と改称された。取締(事務長)の石神良策がウィリスとともに鹿児島に去ると、医学取調御用掛の岩佐純、相良知安の二人は順天堂第二代堂主の佐藤尚中(しょうちゅう、たかなか)を校長に迎えた。

第5話 ドイツ医学の採用〜相良知安の活躍〜

東大医学部の前身である「医学校兼病院」ではイギリス人医師ウィリアム・ウィリスを中心に医学教育が始められようとしていた。そこに医学取調御用掛として乗り込んできた二人の人物がこれに待ったをかける。

第4話 東大医学部の起源 医学校兼病院時代〜医師養成制度の始まり〜

日本における近代西洋医学教育は安政4年[1857年]長崎の海軍伝習所で、オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メーデルフォルトによって始められた。ポンペの助手であり生徒であった松本良順は文久3年[1863年]江戸の「医学所」の頭取となり、ポンペから学んだ知識と教授法をもたらした。

第3話 長崎精得館の発展と明治維新 〜長崎大学医学部の発進(つづき)〜

ポンペは病院を建てることを早くから望んでいた。臨床実習のためである。来日以来、種痘の普及、コレラ治療などの活躍に長崎住民の尊崇するところとなり、松本良順はもちろん、長崎奉行・岡部長常(ながつね)、オランダ公使ドンケル・クルティウスの支援があって、日本初の公立病院「養生所」が開設されたのは万延元年[1861]。場所は小島村の高台である。

第2話 近代西洋医学教育の始まり 〜長崎大学医学部の発進〜

ポンペ・ファン・メーデルフォルト(Pompe van Meerdervoort)はオランダ海軍二等軍医で、長崎海軍伝習所(日本で最初の海軍軍人学校)の第2期の教官として安政4年[1857]に来日した。長崎海軍伝習所は海軍士官養成のための幕府機関で、オランダ海軍軍人を教官として迎えて設立された。

第1話「種痘所」から「医学所」へ 〜東京大学医学部の起源〜

東京の秋葉原駅の南東、神田川を渡った先の岩本町3丁目交差点の歩道に「お玉ヶ池種痘所記念碑/東京大學醫學部」と書かれた碑が据えられている。その碑文には「この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め…」とある。

昭和40年代から現在 :: プロローグ「医学部誕生の時空見取り図」

新制大学スタート時点で46あった医学部の数はその後昭和44年[1969]まで変わらなかった。ただし公立大学のいくつかが、国立に移管された。地方自治体の財政悪化に伴い医学部の維持費負担が困難になったことが主たる理由である。

昭和戦時期 :: プロローグ「医学部誕生の時空見取り図」

大阪と名古屋に帝国大学が設置されて七帝大がそろった。大阪・愛知の公立医科大学が官立移管されて帝国大学医学部となった。日中戦争から太平洋戦争へと続く時代、教育も戦時体制になった。拡大する戦線の維持には軍医が必要である。