執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)
新制大学スタート時点で46あった医学部の数はその後昭和44年[1969]まで変わらなかった。ただし公立大学のいくつかが、国立に移管された。地方自治体の財政悪化に伴い医学部の維持費負担が困難になったことが主たる理由である。
終戦直後は軍医・開業医の外地からの引き揚げ、戦時新設医専学生の卒業などで医師は過剰状態だったが、1960年代になると戦後の人口増加と国民皆保険の開始により医師不足と認識されるようになった。問題は医師の絶対数の不足と都市部への偏在である。
昭和44年[1969]、特に医師不足の深刻だった秋田県に医学部設置が決まった(秋田大学医学部。開学は翌年)が、これは特例措置であり、医師不足問題の解決は既存国立大学医学部の定員増で図る方針だった。一方で私立の医学部設置は早かった。昭和45年[1970]からの5年間で15校が新設された。
既存医学部の定員増と、都市部を中心にした私立医学部の新設では、医師数の地域間格差はむしろ拡大することになる。そこで政治主導で「無医大県」解消が政策目標となった。昭和48年[1973]の3大学(旭川、山形、愛媛)設置から始まって昭和56年[1981]の琉球大学まで16の国立医学部が設置された。
しかしその計画が完成する前から今度は医師過剰が叫ばれ、やがて入学定員の削減が始まり、医学部の新設は認められなくなった。
ところが今世紀に入ってまもなく再び医師不足と大都市偏在が問題になり、2008年から既存の医学部の定員増が始まった。人口減少時代を控えて医学部の新設は行わない方針だったが、東日本大震災の復旧・復興の施策の一つとしての「東北地方における医学部新設の特例措置」により、東北薬科大学が医学部設置の認可を申請している。