第1話「種痘所」から「医学所」へ 〜東京大学医学部の起源〜

お玉ヶ池の「種痘所」

東京の秋葉原駅の南東、神田川を渡った先の岩本町3丁目交差点の歩道に「お玉ヶ池種痘所記念碑/東京大學醫學部」と書かれた碑が据えられている。その碑文には「この種痘所は東京大學醫學部のはじめにあたるのでその開設の日を本學部創立の日と定め…」とある。

岩本町3丁目の「お玉ヶ池種痘所記念碑」(手前)

東大の発祥の地碑は実はもうひとつある。神田錦町、共立講堂の向かいの学士会館の植え込みに「東京大学発祥の地」の碑がある。明治10年[1877]、東京医学校と東京開成学校が統合されて東京大学が成立した。岩本町は医学校の、神保町は開成学校のそれぞれの発祥の地なのである。

東大医学部の淵源である「種痘所」は最初にこの岩本町に建てられた。「お玉ヶ池種痘所」と言われたのはこのあたりにはかつて大きな池があったからだが、それは江戸初期の話。

かつては石神井川の水が上野の不忍池に流れ込み、更にお玉ヶ池を通って江戸湾に注いでいたが、石神井川は王子あたりで荒川に注ぐように改修され、また神田川が開鑿されたためお玉ヶ池は干上がってしまった。

江戸後期の『江戸名所図会』には「少しく井のごとき形残れり。昔の池の余波(なごり)なりと言へり」とある。このころの切絵図では付近は家々が立ち並んでいる。千葉周作が住む町であり、人形佐七親分が駆ける(もちろんこれは横溝正史のフィクション)町である。それでも昔日の名残として、池に身を投げた「お玉」という女性を祀ったという「お玉稲荷」が現在でも近くにある。