執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)
明治19年[1886]、東京大学医学部は帝国大学医科大学となった。
全国あまねく設立された公立医学校のほとんどは一斉に忽然と消滅してしまう。生き残ったのは官立に移管された5校と、公立のままで存続する3校(愛知、京都、大阪)だけである。公立医学校の廃止は文部大臣森有礼の中央集権的高等教育政策によるといわれているが、はたして“森文相の地方潰し”的な解釈でよいのか、それは本編で改めて検討してみたい。
官立となった5校とは第一から第五の高等中学校医学部(のち高等学校医学部)である。すなわち、第一は千葉、第二は仙台、第三は岡山、第四は金沢、第五は長崎の各医学校が官立となったのである。公立として生き残った3校のうち愛知、大阪はのちに官立移管されて名古屋大学、大阪大学の医学部となる。唯一公立のままで現在まで歴史を刻み続けてきたのは京都府立医科大学である。
公立医学校消失の空隙を補うためか私立医学校の設立が再び盛んになる。明治21年[1888]に4校だったのが明治29年[1896]には14校(東京6、愛知2、大阪2、京都・広島・熊本・鹿児島に各1)にまで増加する。