第8話 大阪・長崎の医学校の廃止と東大独裁体制の完成〜ドイツ医学の全国普及〜

大阪医学校突然の廃校

明治5年の学制発布により、大阪の医学校は官立の「第四大学区医学校」となった。

ところがそれからわずか2ヶ月後の明治5年10月2日、「第四大学区医学校」は突然廃止されてしまう。その理由は経費節減とか、緒方惟準が陸軍軍医学校に転出したから、などと説明されるが、実際は、教育レベルの学校差をなくすため、医学教育を一箇所に集中し、なおかつ経費を節減するという文部省及び第一大学区医学校(東大医学部)の方針によって廃校とされたのである。医学教育を集中させる一箇所とはもちろん東京である。

東京の「東校」にミュルレル、ホフマンが着任したのが明治4年の夏、それから1年経った明治5年8月「東校」は学制により「第一大学区医学校」となった。そして学校の拡充計画が策定され、文部省を通じて正院(当時の最高行政機関)に上申書として提出された。

文部省の上申書(部分)(国立公文書館デジタルアーカイブより転載)

文部省の上申書(部分)(国立公文書館デジタルアーカイブより転載)

その内容は、現在のままでは卒業生の輩出ペースが遅すぎるので、教員数を倍増すれば、生徒数は3倍にできる、というものだった。増加する教員の給与については、「現今府県において相設けそうろう姑息の医校」で雇っている外国人教師が追々任期が満了するのでその給与をこちらの増員分に充てればよいとしている。該当する学校の外国人教師名、契約期間、給与を一覧にした別紙が付けられている。その「姑息の医校」としてリストアップされているのは、鹿児島、金沢、熊本、佐賀、大阪の医学校である。佐賀(教師名等空欄)以外は蘭医(金沢のスロイス、熊本のマンスフェルト、大阪のエルメレンス)と英医(鹿児島のウィリス)である。佐賀は「好生館」のことであるが、調査の段階では着任以前だったため空欄になっているものと思われる。佐賀では当初O・シモンズを雇用するつもりだったが彼が大学東校に赴任してしまったため、ヨングハンスに代えたという混乱も影響しているかも知れない。

拡充計画の上申書は「去秋以来、東校においては孛国(プロシア)医学の教則に倣い・・・」という文で始まっている。蘭医、英医を解任し、ドイツ医学で日本の医学教育を統一しようという意図が見える。