第4話 東大医学部の起源 医学校兼病院時代〜医師養成制度の始まり〜

日本における近代西洋医学教育は安政4年[1857年]長崎の海軍伝習所で、オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メーデルフォルトによって始められた。ポンペの助手であり生徒であった松本良順は文久3年[1863年]江戸の「医学所」の頭取となり、ポンペから学んだ知識と教授法をもたらした(第1話〜第3話を参照のこと)。しかし戊辰戦争の勃発で医学所は機能不全に陥る。

戊辰戦争の混乱と医学所の復興

『明治二年東京全図』地図番号:000904458/資料提供:古地図史料出版/資料所蔵者:国際日本文化研究センター

『明治二年東京全図』(部分)
赤マル部分に「医学校兼病院」とある。その左下には「種痘館」もある。
資料提供:古地図史料出版/資料所蔵者:国際日本文化研究センター

慶応4年[1868年]戊辰戦争が始まると、頭取の松本良順は幕府軍を支援するために会津に下り、医学所の学生は戦乱を恐れて散り散りになり、医学所は休止状態になってしまう。

江戸に入った倒幕軍=新政府は幕府の諸機関を接収し、医学所も新政府の学校として復興する。それまで漢方医学の教育施設であった「医学館」は医学所附属の「種痘館」に改組された。いままで医学所が行ってきた種痘業務は分離されてこの種痘館が行うこととなった。

病院は医学所とは別の起源を持つ。これより先、鳥羽・伏見に端を発した戊辰戦争の戦線が東へ移動したので新政府軍は軍陣病院を横浜に設置した。野毛山の漢学稽古所「脩文館」を病院とし、イギリス公使館付医師のウィリアム・ウィリスらに治療を担当させた(「横浜病院」)。現在横浜市立老松中学校がある場所である。のちに横浜病院の跡には「十全病院」が設置され、これが横浜市立大学医学部の前身となった。

戦線が越後・東北に移ると、横浜の病院は江戸和泉橋通の藤堂和泉守上屋敷に移転した。「医学所」のすぐ近くである。「大病院」と称し、「医学所」を附属とした。政府軍に従って越後・会津の戦線に行っていたウィリアム・ウィリスも東京に戻った。

以上が慶應4年=明治元年[1868年]に生起したことである。

翌年の2月、「医学所」は病院のある藤堂和泉守上屋敷に移転して「医学校兼病院」と称した。医学校が主で、病院がこれに付属するのである。現在の医学部と附属病院という態勢が初めて出現した。

「医学校兼病院」は東京医学校となったのち明治9年に本郷に移転する。和泉町の跡地には東大付属第二病院が置かれていたが、明治34年の火災で全焼し、その後は東大の運動場として使用されていたところ、財閥三井家が取得し、明治42年三井慈善病院が開院した。現在の三井記念病院である。

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