「その名ありてその実なし」埼玉県会の議論
前回は公立医学校のほとんどが廃止された背景には、医学校にかかる莫大な経費と、松方デフレによる地方経済の疲弊があったことをみた。松方正義が大蔵卿に就いたのは、明治十四年の政変で下野した大隈重信の後任としてである。緊縮財政の結果デフレ経済、いわゆる「松方デフレ」となったのは明治10年代後半である。
しかしそれ以前に廃校になっている公立医学校もある。埼玉県の医学校は明治12年に廃止されていて、これは公立医学校廃止の最も早い例である。この年に初めての県会議員選挙が行われ、その結果を受けての第一回県会で廃止方針が決定されたのだが、前話で公立医学校廃止の原因の第一にあげた「地方議会の開会」に該当する最初の例となったわけだ。廃止決定の背景には埼玉県ならではの事情、地政学的ともいうべき理由もあった。
埼玉県医学校は明治9年1月に開校した。正則生(外国語で学ぶ、修業年限5年)が28名、変則生(日本語で学ぶ、同3年)36名での出発だった。10年12月には臨床医学のために診療所を併設した。11年12月には変則生8名が修了となり、医師開業免状を取得し、医学校で1名採用し、他は県内各地に赴任していった。生徒は全員給費生である。修了して医師となったあかつきには県内で医療に従事する義務があった。現在の医学部の修学資金付地域枠のようなもの、あるいは県版自治医大といったところだ。
こうしてようやく軌道に乗ったかに思えたのだが、明治12年8月の県会で廃校が決議された。
県会ではどのような議論があったのだろうか。久保田友子氏の「埼玉県行政文書から見る県立医学校」に引用されている田島源内なる県会議員の主張の大意は以下の通りである
—— 本県の医学校は県の東隅に位置しているから、児玉郡や秩父郡など北部や西部の県民は治療を受けることができないではないか。いっそのこと東京へ出て名医にかかろうとするだろう。だから、その名ありてその実なし、県立とはいいながら実質県民のためになっていないのである。医師養成ならば自前で医学校を運営するよりもむしろ東大医学部に生徒を派遣してそこで養成してもらった方が安上がりであろう。
県会の廃校の議決の発端は診療所新設のための多額の予算の計上だった。つまりは医学校経費が多額であることが廃校の第一要因なのだが、それに加えて埼玉独自の事情を、県の北西隅にある小鹿野町に居住する田島議員は訴えているのだ。廃止論の根拠は東京に近いことと、医学校所在地が地理的に偏っていることである。
なぜ医学校は埼玉県の南東隅にあるのか。浦和はもともと中仙道が通っていた交通の要衝であったからそこに医学校が置かれるのは不思議なことではないが、その他に廃藩置県後の県の統廃合の過程も係わっている。それは隣県の前橋医学校の存在と関係しているので、この学校の沿革を見てみよう。