第3話 長崎精得館の発展と明治維新 〜長崎大学医学部の発進(つづき)〜

病院の建設と臨床実習の始まり

養生所 ポンぺ著『日本における五年間』口絵
(長崎大学附属図書館経済学部分館所蔵)

ポンペは病院を建てることを早くから望んでいた。臨床実習のためである。

来日以来、種痘の普及、コレラ治療などの活躍に長崎住民の尊崇するところとなり、松本良順はもちろん、長崎奉行・岡部長常(ながつね)、オランダ公使ドンケル・クルティウスの支援があって、日本初の公立病院「養生所」が開設されたのは万延元年[1861]。場所は小島村の高台である。

この地は現在は長崎市立佐古小学校の敷地となっている。翌年大村町の医学伝習所もここに移転した。

124の病床はすべてベッドの洋式病院で洋食も出た。貧しい者は無料で診察をし、患者の扱いに貧富・階級の区別はしなかった。

ポンペの言葉「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい。」を長崎大学医学部は建学の基本理念としている。

医学のほぼ全分野を講義しつくしたポンペは文久2年[1862年]離日した。ポンペの教え子からは、その後日本の医学行政、医学教育などの発展に寄与した人物が多数出た。松本良順(初代陸軍軍医総監)をはじめ、長与専斎(内務省初代衛生局長、東京医学校校長)、佐藤尚中(しょうちゅう)(大学東校校長)、緒方惟準(いじゅん)(大阪医学校校長)、岩佐純(医学取調御用掛、宮内庁侍医)、佐々木東洋(大学東校病院長、杏雲堂医院創設者)などである。

ポンペの帰国と前後して松本良順も江戸に帰った。医学所で頭取・緒方洪庵の下で副頭取となり、洪庵急逝のあと頭取に就任して、ポンペの教育法を取り入れた改革を断行したことは第1話で述べた。医学所改革は、ポンペがもたらした本格的西洋医学教育が江戸に伝わったことなのである。

次のページ:第2代アントニウス・ボードウィン »