第7話 適塾から仮病院、大阪医学校へ〜大阪大学医学部の起源〜

緒方洪庵の「適塾」

適塾(重要文化財)

適塾(重要文化財)

いままで東京と長崎の医学校について述べてきたが、明治初期に設置された官立医学校はもうひとつあった。それが大阪大学医学部の起源である。

大阪大学と直接的な継続関係はないが、大阪であるからには「適塾」から語り始めることにしよう。

適塾は周知のとおり、緒方洪庵が大阪に開いた蘭学・蘭医学の個人塾。洪庵は大阪の中天游、江戸の坪井信道に蘭学を学び、更に長崎遊学ののち、天保9年[1838年]大阪瓦町で開業し、蘭学塾も開いた。江戸よりも10年ほど早く、「除痘館」で種痘を行ったことは第1話で述べた。

蘭学塾は弘化2年[1845年]に過書町(現在の中央区北浜3丁目)に移転した。その建物は現存していて、国史跡、重要文化財に指定されている。

その教育方法や学生生活は福沢諭吉の『福翁自伝』や長与専斎の『松香私志』で詳しく紹介されている。ここでは福沢から引用しよう。

それから塾で修業するその時の仕方はどういう塩梅(あんばい)であったかと申すと、まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者にどうして教えるかというと、そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカ(文法書)といい。一をセインタキス(文章論)という。初学の者には、まずそのガランマチカを教え、素読を授ける傍(かたわ)らに講釈をもして聞かせる。これを一冊読み終わるとセインタキスをまたその通りにして教える。どうやらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。会読ということは、生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞いていて、出来不出来によって白玉を付けたり黒玉を付けたりするという趣向で、そこで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、それからは専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、また質問を試みるような卑劣な者もない。

門人は三千人と言われた(登録門人は612名)。全国から集まった門人は地元に帰り、西洋医学を教えた。だから医者が多いのは当然だが、福沢諭吉、大村益次郎(兵学者)、佐野常民(政治家、日本赤十字社を創始)、橋本佐内(幕末志士、福井藩政を改革)、高峰譲吉(応用化学者、アドレナリンを発見)、箕作秋坪(みつくりしゅうへい、教育者、三叉学舎を設立)のような多彩な人材を世に送り出した。

すでに第1話で述べたように、文久2年[1862年]洪庵は幕府の命を受け「ありがた迷惑」と言いながら江戸に下り、奥医師(将軍家の侍医)と種痘所頭取の任についたが、その翌年急逝してしまう。その後は養子の緒方拙斎が適塾を継続したが、実態は休眠状態となったようだ。

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