第5話 ドイツ医学の採用〜相良知安の活躍〜

東大医学部の前身である「医学校兼病院」ではイギリス人医師ウィリアム・ウィリスを中心に医学教育が始められようとしていた。そこに医学取調御用掛として乗り込んできた二人の人物がこれに待ったをかける。

イギリスかドイツか

相良知安(『東京大学百年史 通史一』より転載)

相良知安
(『東京大学百年史 通史一』より転載)

明治2年1月[1869年]、政府は、岩佐純(じゅん、あつし)、相良知安(ちあん、ともやす)の二人を「医学取調御用掛」に任命した。

岩佐は福井藩医の子、相良は佐賀藩医の子で、二人とも千葉・佐倉の順天堂で学び、更に長崎でポンペ、ボードウィンに師事したという同じ学歴を持つ。

この二人の最初の任務は大阪にあったが、それは第7話で述べることにして、ここでは首都が東京と定まり、同年3月彼らが上京してきたところから始めよう。

「医学取調御用掛」は医学校兼病院の管理運営と、医学制度改革が任務である。岩佐は主として病院を、相良は主として医学校を担当した。

すでに述べたように、医学校兼病院では英国人医師ウィリアム・ウィリスWilliam Willisが教育と治療にあたっていた。ウィリスは、山内容堂、西郷従道などを治療したこともあり、政府首脳との交際も広かった。これからの医学はイギリス医学の移入になるはずだった。

しかし相良知安はこれに異義を唱える。自分たちが学んできたオランダ医学はほとんどがドイツ医学の翻訳であり、ドイツ医学が最も優れているというのがその理由である。加えて、「英は国人を侮り、米は新国にして医あまりなし、独は国体やや吾に似て」(『東京帝国大学五十年史』)などという国力・文化・政体の違いも理由にされている。実習を重視する英米医学に対して、ドイツ医学は学究的性格が強く、日本の士族の教養文化に親和的であったということも背景にはあるらしい。

山内豊信(容堂)(国立国会図書館ホームページより転載)

山内豊信(容堂)
(国立国会図書館ホームページより転載)

当時の大学別当(今の文部科学大臣)はウィリスと親交のある土佐藩主・山内容堂(豊信)だからドイツ医学転換は容易ではない。

慶応4年2月京都でウィリスは重篤の容堂を治療した ——「私はまた、肝臓の炎症を起こした土佐という大名を治療したのです」とウィリスは手紙に書いている。ウィリスは容堂にとって命の恩人なのだ。

ある日相良、岩佐の二人がウィリスの家に招かれて行くと、そこには英国公使パークス、山内容堂、そして松平春嶽(慶永)がいた。容堂はパークスに向かって言う、

「余はウリースを採用したいのであるが、この医者ども二人が承知せぬから困っている。貴君からこの者どもへ直接に談判してくれ」

老獪な公使パークスはこれを受けて

「相良はワインが好きか、ビールが好きか。なにビールか、それなら無論英国贔屓だろう」

人を馬鹿にしたような物言いに相良は滔滔と自説を述べ立てて反論した。

「そもそも医師は万有の学者である。贔屓、不贔屓というような情実は持たない。なるほど英医は外科に長じているから海軍医学校に採用するなら適当であろうが、大学東校(注 — この時点では「医学校兼病院」である)の医学は今世最も発達したるドイツに求めねばならないと思う。これはただ我ら二人の私見ではなく、全国医師の意思を代表して言うのである」(「相良知安翁懐旧譚」)。

当路の要人らにも臆せず持論を展開する相良は、石黒忠悳(ただのり)によると「自信の強い、談論風発、気骨稜々たる圭角ある大議論家」であった(『懐旧九十年』)。

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