第9話 明治初期、全国に公立医学校があった〜陸続の設立と忽然の消滅〜

廃藩置県と学制発布で消えた藩立医学校

いままでは官立(国立)医学校の成立と再編について述べてきた。今回からは公立の医学校の明治前半期における設立と消滅の歴史を述べる。

公立の医学校はまずは藩校として設立された。江戸時代、多くの藩校において医学も教授された。当初は漢方医学のみだったが次第に蘭方医学も教授されるようになった。また医学教育だけを独立させて医学所とするところもあった。

明治元年3月、新政府が「西洋医学採用の被仰出書(おおせいだされしょ)」で今後西洋医学を採用する方針を明らかにすると、西洋医学校を設立する藩が相次ぎ、なかでも財政豊かな藩は外国人教師を雇い入れた。

藩校から出発した医学所も、新たに設立された西洋医学校も、これらは「藩立」である。藩が、藩の財政で運営したのである。

明治4年7月の廃藩置県は、その名の通り「藩」を廃止したのだから、藩立学校もその存立基盤を失った。知藩事(かつての藩主)は解任されて、全員東京在住が命じられた。藩に代わって新たに設置された「県」の行政最高責任者は、明治政府が任命した県令(県知事)である。なかには、医師養成に理解があり、藩立医学校を県立医学校として存続させたケースもあったが、藩立医学校の多くは廃止された。

更に明治5年8月、「学制」発布に伴い、「従来府県において取り設けそうろう学校」はすべて廃止する旨の布達があった。理由は、学校制度をこれから整備すること、また公立学校には問題がある学校も少なくない、という理由であった。この布達(文部省布達明治五年第十三号)には但し書きが付されていて、外国人教師を雇用している学校は保留とするとある。外国人教師の解雇が外交問題に発展することを危惧したのだろう。しかしそれも2ヶ月後の布達(第三十五号)で、全校廃止が命じられた。一部の県だけに多額の国費が注入されるのは不公平であるというのがその理由で、ただし県費や私費によって運営する公立・私立の医学校や病院に転換するのは構わないとされた。

野田義夫『明治教育史』(明治40年)は、以上の経緯を「これらの学校は廃藩の際に閉校したるものあり、これを継続せしものも明治五年八月学制の頒布によりて旧藩立の学校は一切閉鎖を命じたるをもって、全くその跡を絶ち、その命脈を存ぜしものはこれを私立の病院となしたり」と記述している。ここに言う「私立の病院」として存続した例としては、佐賀の好生館病院があげられる。学校として存続した例もあり、県立のまま存続したのが鹿児島医学校(ただし明治10年の西南戦争で廃校)、私費をもって存続させのちに県立として再開したのが金沢医学校、日本人教師に変更して再出発したのが岡山医学校である(坂井建雄「我が国の近代解剖学教育の成立過程」参照)。