第13話 公立医学校廃止の諸相(2)~福岡・鹿児島・熊本の医学校の廃止とその後~

今回は九州大学医学部と繋がりがある福岡医学校と、鹿児島、熊本の医学校の設立・廃止・その後について紹介する。

福岡医学校の設立

福岡における医学校の創設は慶応3年[1867年]設立の「賛生館」である。これは西洋医学を学んだ福岡藩侍医・武谷祐之(たけや・ゆうし)の建言により設置され、洋・漢両道の医学を教授した。藩立ではあるが、廃藩置県後も存続したものの、公立学校は全廃すべきという文部省の布達(明治五年第十三号。第9話参照のこと)によって廃止となったようだ。

明治7年着任の県令(県知事)渡辺清は、賛生館の関係者らの要請を容れて明治8年に仮病院、明治9年に福岡医院を設立した。場所は博多中島町岡新地、現在の博多区中洲5丁目あたりである。この病院内で医学教育が行われ、明治12年医学教育は独立して福岡医学校となり(実際の開校は翌年1月)、福岡医院はその付属病院となった。修業年限は8期4年、授業料は月25銭、他県出身者はこのほかに束脩(入学金)50銭が必要だった。

現在の中洲(博多大橋付近)

現在の中洲(博多大橋付近)

明治15年「医学校通則」が制定されると福岡医学校は、無試験で医師免許が取得できる「甲種医学校」となることを目指した。甲種医学校の条件である、「医学士3人」の教員については、東大医学部明治12年卒業組(医学士)の大森治豊(おおもり・はるとよ)、熊谷玄旦(くまがい・げんたん)と、福岡医院開業以来の院長で明治9年卒業の大河内和(おおこうち・かず)がいる。明治9年卒は「医学士」ではないが、この年の2月に「準医学士」の称号が与えられていた。「医学校通則」の「医学士3人」ルールの、医学士ではないが「相応の学力を有する者」を医学士に数えることができるという但し書きに当てはまる。あとはカリキュラムの整備と各種試験の厳格化、設備・器具の充実などであった。

甲種認可への準備は着々と進んでいたのだが、明治16年1月に大河内和が病死してしまった。それでもなぜか明治16年4月には甲種医学校の認可を受けることができたが、もう1人の医学士獲得が喫緊の課題となった。そんなときに福岡医学校に立ち寄ったのがこの年に東大医学部を卒業したばかりの池田陽一である。

実は、池田は佐賀医学校で採用されることになっていた。