長崎に敗れた福岡医学校
こうして順調に発展するかと思えた福岡医学校だが、ここに立ちはだかったのは、他の医学校と同様に「県会」だった。すでに明治15年の通常県会で医学校全廃の主張がなされたがこのときは賛成少数で棄却された。明治17年も同様に棄却された。ところが明治18年の通常県会では賛成多数で医学校廃止と決してしまった。
ところがここにウラワザがあった。「府県会規則」の第5条にはこうある。
第五条 府県会の議決は府知事・県令認可の上、これを施行すべきものとす。もし府知事・県令その議決を認可すべからずと思慮するときは、その事由を内務卿に具状して指揮を請うべし
つまり県会の議決に対して県令(県知事)は拒否権を持つわけで、中央政府の内務卿(現在の総務大臣にあたる)の承諾があれば県会の議決を無効とすることができるのである。この時の福岡県令・岸良俊介(きしら・しゅんすけ)はこの「原案執行権」を使って医学校廃止を阻止した。
明治19年になると初代文部大臣・森有礼の学制改革が矢継ぎ早に発出され、福岡医学校もその嵐に巻き込まれることになる。4月に「中学校令」が公布され、全国を五区に分け各区に「高等中学校」を国の管轄で設置することになる。11月にその区割りが確定して九州は第五区となり、12月から翌年1月にかけて森有礼・文相の九州巡視があり、明治20年4月には第五高等中学校は熊本に設置が決まり(文部省告示第二号)、そして8月27日には「第五高等中学校医学部は長崎にこれを置く」と決した(同前第七号)。これにより県立長崎医学校は官立の第五高等中学校医学部へと転換されることになった。福岡医学校も医学部誘致を試みたが、医学教育の伝統からして長崎には敵わなかったのだと思われる。長崎では誘致のために予め、兵式体操の採用、制服の決定、生徒心得・寄宿舎規則の改正などを行っていたのである(『長崎医学の百年』第五章第十九節)。
福岡が長崎に破れた日から1ヶ月すると「勅令第48号」が出た。地方税を医学校の経費に回すことを禁じたもので、全国の公立医学校にとっては閉鎖命令に等しいものであった。福岡医学校にも選択肢はなかった。明治21年3月末をもって福岡医学校は廃止された。