熊本の古城医学校とマンスフェルト
熊本の明治時代の医学校は、複雑な過程を経て現在の熊本大学医学部に繋がっている。右に「沿革図」を示したので理解の一助とされたい。
熊本の医学教育は、熊本藩の細川家8代藩主・重賢(しげかた)が宝暦6年[1756年]に設置した「再春館」に始まるがこれは漢方医学の学校であった。明治になり知藩事に就任した細川護久(ほそかわ・もりひさ)は、西洋医学を広めるため、再春館を廃止して、明治3年に病院と、翌4年に西洋医学を教える医学校を開設した。この熊本医学校は、加藤清正の築城以前の「隈本城」の地にあったので「古城(ふるしろ)医学校」と呼ばれた。現在の熊本第一高等学校の地であり、校内に「古城医学校跡」の石碑がある。
病院の院長には、長崎の蘭方医で長崎精得館の執事であった吉雄圭斎(よしお・けいさい)が招聘された。吉雄は、医学校の教師として長崎精得館からマンスフェルトを招くよう、知藩事・細川護久に進言した。マンスフェルトは長崎精得館の3代目の外国人教師であることは第3話で述べた。長崎での契約の期限が近づいていたマンスフェルトは応諾し、熊本の医学校で3年間教授することになった。医学校が機能したのはまさにこの3年間だけで、あとは病院だけが存続した。だからこの古城医学校とは「マンスフェルト医学校」であったと言えよう。この時マンスフェルトの教えを受けた者130余名の中に、緒方正規(まさのり)や北里柴三郎がいた。マンスフェルトはその去り際、北里に東京医学校(東大医学部)への進学を強く勧めた。長崎に帰ったのちマンスフェルトは、京都、大阪の医学校で教えたが、それは僅かな期間で、やがてオランダに帰国した。