第13話 公立医学校廃止の諸相(2)~福岡・鹿児島・熊本の医学校の廃止とその後~

W・ウィリスの鹿児島医学校

ウィリアム・ウィリス

ウィリアム・ウィリス
鹿児島県歴史資料センター黎明館

鹿児島における医学校の歴史は古く、江戸時代の安永3年[1774年]に25代当主・島津重豪(しまづ・しげひで)が「医学院」を設立した。これは漢方による医学教育であり、江戸の「医学館」を範とした。

明治元年10月には洋・漢両道による学校に改組された。ここから西洋医学部門が独立して明治2年12月「西洋医学校」となり、そこに赴任してきたのがウィリアム・ウィリスだった。

ウィリスについては第5話で述べた。東大医学部の前身である「医学校兼病院」では英医・ウィリスが中心になって医学教育が行われることになっていたが、「医学取調御用掛」(日本の医学教育の制度設計が任務)に任命された岩佐純(いわさ・じゅん、あつし)と相良知安(さがら・ちあん、ともやす)によって、医学教育はドイツ医学を採用することに決定された。イギリス人のウィリスは学校から排除され、西郷隆盛、大久保利通らの斡旋で鹿児島に迎えられたのである。

ウィリスの着任した「鹿児島医学校」は旧浄光明寺址に校舎を新築し、病院は滑川沿いに立てられた。この病院は赤煉瓦の洋館だったので「赤倉病院」と呼ばれた。現在、桜島桟橋通の停車場前に「赤倉の跡」という石碑が建っている。

授業は1日おきに行われ、授業日の翌日は診療日で、これは臨床実習も兼ねた。生徒は、県内出身者300人、他県からもあわせて500人以上が在籍したという。東京慈恵会医科大学の創設者・高木兼寛(たかぎ・かねひろ)もここに学び、ウィリスに信頼されて教鞭も執った。

ところが明治10年の西南戦争で医学校も病院も閉鎖、ウィリスは鹿児島から退去させられやがて母国に帰ってしまった。