佐賀医学校について
佐賀は長崎に近いためか、早くも安政5年[1858年]に「好生館」が設立されて蘭方医学の教育を始めた。明治になると、ドイツ医学導入を決めた相良知安(第5話参照)の出身地であることが関係してか、好生館でもドイツ医学が採用された。しかし明治5年の学制発布で学校は閉鎖され、県立好生館病院となった。病院内で医学教育は続けられていたがそれを拡充すべく、明治14年(このとき佐賀は長崎県に併合されていた)佐賀郡など8郡が連合して町村立の佐賀医学校を設立した。長崎県からは2,000円の補助金が支給された。明治15年時点の教員は医学士2名、東大医学部別課卒1名など。また病院との兼務であるが外国人教師も3人いた。生徒数は291名という全国でも有数の規模だった。
明治15年の「医学校通則」を受けて、佐賀医学校も甲種医学校となるべく、県に3,500円の補助を申し入れた。しかし県会はそれを1,750円に半減して議決したため、甲種どころか乙種としても経営できなくなり明治16年に廃校となったのである。なお病院は存続して明治29年「佐賀県立病院好生館」となった(現在の佐賀県医療センター好生館)。
佐賀医学校の閉鎖が明治16年10月だからその頃だろう、就職先が突然なくなってしまった医学士・池田陽一だが就職口には困らない、これに代わる勤務先は福島病院と決まり、佐賀を出立して途次福岡医学校を見学しに立ち寄った。そこで大森に説得されて就職先を福岡医学校に変更してしまったのである。
池田は産婦人科担当で、明治18年4月、大森とともに帝王切開手術をして日本で初めて成功した。この成功は「神技」と讃えられ、福岡医学校・病院の名を全国に知らしめることになった。