九州帝国大学はどこに?
日清戦争後の明治30年代になると政府は高等教育拡大の必要性を認識し、山縣有朋内閣は、明治33~40年の間に高等教育機関を拡大する「八年計画」を打ち立て、その中に2つの帝国大学の新設計画が含まれていた。その位置について東北地方は宮城県が最初から規定路線だったらしいが、九州地区は、八幡製鉄所のある福岡県、洋学受容の長い伝統がある長崎県、官立第五高等学校のある熊本県が誘致合戦を繰り広げた。この2帝大新設計画は大蔵省の反対で一時頓挫したが、第1次桂太郎内閣で菊池大麓(きくち・だいろく)が文部大臣に就任(明治34年6月)すると九州案件のみは進捗した。高等学校卒業者の増加への対応策として、その進学先である大学の拡大が急務となり、医師不足解消も兼ねて、東京・京都の帝国大学と同レベルの帝国大学医科大学を設置することに議論は収斂した。
問題はその設置場所である。福岡は全県あげて誘致運動を展開し、県立福岡病院の敷地・施設を寄付することとした。そして誘致運動を先導した一民間人についてもここで紹介しておこう。
東日本大震災のために1年延期された2012年の「九州大学創立百周年記念式典」で、九大総長が式辞冒頭で「設置に際し資金のご支援をいただいた」と言及した、呉服商・渡邉與八郎(わたなべ・よはちろう)である。「資金のご支援」とは、渡邉が率先して誘致運動費として5,000円を無利子で提供したことである。それだけにとどまらず彼は、大学誘致の障碍になる遊郭を移転させるために自らの所有地を提供した。また、博多電気軌道(西鉄福岡市内電車の前身)の設立を提唱するなど、福岡市の発展に多大な貢献をした。天神を南北に貫く道路の名称「渡辺通り」(地下鉄七隈線の駅名でもある)は渡邉與八郎の功績を讃えて命名されたものである。
長崎は医科大学よりは高等商業学校の新設を希望して辞退することとなった。熊本は当時九州の中心都市であるという自負があり、熊本に決定するのを当然視していたためか、誘致運動は高まらなかった。福岡内定説が出るに及んで誘致運動をようやく本格化させたが、出遅れを挽回することはできなかった。結局、帝国大学医科大学は福岡設置と決し、明治36年4月京都帝国大学福岡医科大学が開学した。福岡に決定した理由のひとつに病院の立地のよさと設備の充実さがあげられている。先に述べた明治29年の馬出への拡充移転がなかったら九州大学は福岡にはなかったかもしれない。
設立時点ではなぜ「京都帝国大学」なのか。それは、帝国大学は総合大学でなければならなかったので、医科だけで帝国大学とすることはできなかったからである。そこで名目上京都帝大の一部としたのである(当時は帝国大学以外の「大学」は存在しなかった。私立で「大学」を称していたところも制度上は「専門学校」であった)。明治44年に工科大学も設置するようになってはじめて「九州帝国大学」として独立するのである。
九州大学の初代総長は山川健次郎であり、その就任は明治44年。しかし九州大学医学部の初代学部長は明治36年就任の大森治豊なのである。
主な参考資料…『九州大学五十年史 通史』、『九州大学百年史 第1巻』