もうひとつの医学校「春雨黌」から「私立熊本医学校」へ
さてここで時間は少し戻る。漢方医学の再春館が廃止された後、高岡元真(たかおか・げんしん)らの漢方医たちは明治15年に和漢医学の研究団体「春雨社」(しゅんうしゃ)を結成し、会員の子弟らに西洋・漢方の両医学を教える「伝習会」を組織した。明治21年県立熊本医学校が廃止されると、高岡らはこの伝習会を発展させた私立医学校「春雨黌」(しゅんうこう)を設立した。廃校になった熊本医学校の生徒を多く受け入れたようだ。黌長(校長)には高岡が就任、第六師団の軍医に講師を頼んだ。この春雨黌が、熊本県知事・松平正直の勧めにより、熊本市内の他の3つの私立学校(済々黌、熊本文学館、熊本法律学校)と統合し「九州学院」となったのが明治24年だった。春雨黌は九州学院医学部となり、高岡元真が医学部長に就任した。開校まもなく生徒騒動が発生し大量の退学者が出た。運営費のほぼ全額を生徒の納入学費に頼っている九州学院医学部には大打撃であったが、それでも学校を維持するために高岡医学部長は私財を投じ、その結果家産を傾けたと言われる。
しかし明治27年に日清戦争が始まると、教師役だった第六師団の軍医は出征し、また生徒も激減して九州学院は廃校の危機に陥った(済々黌は27年に九州学院から分離して熊本県尋常中学校済々黌となった)。日清戦争への第六師団軍医の出征から危機が到来したというのは、前述した愛甲義実の私立熊本病院と同じである。病院は県立として再生し、そこに谷口はじめ、医学士が要職についた。県立病院の医師らの支援に頼るほかないと考えた高岡は松平県知事に懇請し、谷口院長らへの周旋の労をとってもらった。
谷口は病院の他の医師と協力して、高岡を代表者にした新たなる私立医学校を設立することとし、県はこの私立学校に2,000円の補助金を出すことにした。これが明治29年設立の私立熊本医学校である。校長には谷口長雄が就任し、高岡は「校主」となった。「私立」とは言いながら、県と県立病院の協力を得ていた(補助金は金額の変動はありながらも毎年出た)のだから「半官半民」的な学校だったと言える。教員には谷口はじめ4名の医学士を揃えた。生徒は九州学院からの転籍と新規募集を合わせて117名、校舎は九州学院医学部(このときは内坪井町=現・千葉城町にあった)のものをそのまま使い、臨床実習は県立病院で行った。
谷口校長はとくに修身面で厳しく指導し、制服・制帽を定め、全面禁煙として違反者は退学処分とした。カリキュラムはかつての甲種医学校に倣ったようだが、医術開業試験合格を目指す、いわば国家試験予備校である。卒業と同時に医師免許が取得できる帝国大学医科大学や高等学校医学部とは異なる。