県立熊本医学校の設立と廃止
その後明治9年になって、県令(県知事)・安岡良亮は県立医学校建設を企図した。文部省の認可も得、80名の生徒を集めて10月に開校した。場所は熊本手取本町の熊本藩家老清水縫殿の屋敷跡で、今はホテル日航熊本が建っているあたりである。
ところがその4ヶ月後、西南戦争の戦火が熊本に及び、医学校も病院(この時は熊本市下通に移転していて「通町病院」と言われていた)も焼失した。明治11年になって病院と県立医学校は再興された。鹿児島と同様に、真宗大谷派の大谷光勝から18,000円の寄付があった。場所は手取本町藪の内で、現在の日本郵政グループ熊本ビルから熊本ホテルキャッスル、熊本電気ビルにかけての一帯ある。この藪の内は明治時代は文教地区として利用され、後に述べる九州学院もここにあった時もあるし、他に県立熊本中学校(明治21年廃校)、熊本師範学校(熊本大学教育学部の前身)も一時期ここにあった。
明治15年「医学校通則」の公布を受けて県立熊本医学校は直ちに対応した。修業年限を3年から4年に改め、学課を拡充し、県立病院を付属させて、甲種医学校に認定された。この時点の教員は医学士3名、製薬士1名、医学部別課卒2名で、生徒は193人だった。生徒数は前年より18人減ったが、それは3年制が4年制になったことで学業を断念した退学者が出たためだという。明治16年には25名が全課程修了して無試験で医師開業免許を取得した。明治18年の生徒数は予科も含めて236人にまで増加し、多少の予算削減はあっても、他県のような県会による廃止決議はなかったようだ。しかし結局は勅令第48号によって明治21年3月に廃校となった。
病院は医学校の施設・器具を受け継いで県立熊本病院として存続したがまもなく経営難で廃止された。それを、愛甲義実という元陸軍軍医らが施設を借り受けて私立熊本病院として継続させた。第六師団(九州南部出身兵で構成する師団で本拠地は熊本にあった)の軍医の協力を得ていたが、明治27年日清戦争が始まると軍医が出征したため病院運営は困難になった。この状況を憂えた熊本県知事・松平正直は県立病院として再興する案を県議会に提出し、満場一致で承認された。こうして明治28年、県立熊本病院が再出発した。院長には、東京帝国大学医科大学を明治23年に卒業し愛媛県立松山病院長の職にあった谷口長雄(たにぐち・ながお)が迎えられた。