県立鹿児島医学校とその後
戦役後、明治13年の第1回鹿児島県会では県立医学校と県立病院の再興が決議され、明治14年4月に鹿児島医学校が加治町の仮校舎で開校した。真宗大谷派の大谷光勝(おおたに・こうしょう)の寄付により県立鹿児島医学校及び付属病院が新築されて、明治15年1月開業式が行われた。場所は山下町の旧軍馬方跡、つまり西郷隆盛の「私学校」の跡地である。
他の公立医学校と違って廃止の議論は出ていなかったようだが、乙種医学校であり、予算額は年5,000円程度であったが、それも年々減額されていたようだ。そして明治20年の勅令第48号が出されて明治21年3月最後の卒業生を送り出して医学校は廃止された。この時の卒業生の中には、府立大阪医学校がやがて大阪大学医学部へと発展する礎を築いた佐多愛彦(さた・あいひこ)がいた。
付属病院も廃止されたが、私立鹿児島病院として開業を続け、その後市立、そして県立へと移管され、昭和18年に鹿児島県立医学専門学校が設立されるとその付属病院となった。鹿児島県立医専は戦後、県立鹿児島医科大学を経て、昭和33年5月鹿児島大学医学部となった。なお、県立医学校と病院があった「私学校」跡は現在は、国立病院機構鹿児島医療センターの敷地となっている。
主な参考資料…『鹿児島大学医学部七十年史』、ヒュー・コータッツィ・著、中須賀哲朗・訳『ある英人医師の幕末維新』