第20話 長谷川泰と「済生学舎」 ~私立医学校の興亡 (5) ~

それまでの長谷川泰の経歴

長谷川 泰

長谷川 泰
(日本医科大学提供)

長谷川泰についてはもうすでに何回か登場してもらったが(第568話)、前半生の履歴を簡単にまとめておこう。

天保13年(1842年)、越後長岡の漢方医の子として生まれ、父から医学を学ぶほか、藩校済生館で蘭学も学んだ。20歳で離郷して下総(千葉県)の佐倉順天堂(第6話参照)で佐藤尚中(たかなか)から本格的に西洋医学を学んだ。佐藤は長崎でオランダ海軍医ポンペ・ファン・メーデルフォルトから医学を学んだうちのひとりである(第3話参照)。佐倉順天堂で4年学んだあと、長谷川は江戸の「医学所」に移った。ここではポンペの一番弟子の松本良順が西洋医学の近代的教育を始めていた(第1話参照)。

石黒忠悳(ただのり)の『懐旧九十年』に慶應3年(1867年)1月時点の教師と学生の姓名が掲載されている。それによると長谷川は「句読師並」とある。学生でありながら教師の補助もする身分である。しかし戊辰戦争が始まると、「医学所」は機能を停止し、学生は離散した(第4話参照)。長谷川も帰郷し、長岡藩医として北越戊辰戦争に従軍した。

明治政府の成立後、「医学所」は「医学校兼病院」として再興され、長谷川もここに復帰した。「少助教」から次第に位はあがっていくが、本人履歴書(済生学舎開業願の教師履歴)によれば医学学習は続いていたのであり、明治4年からは「4年間ドイツ人ミュルレル氏、ホフマン氏に付き医学修行」とある。

「医学校兼病院」から「大学東校」そして「東京医学校」と名称が変遷していく時代は、東大医学部が教育方法・運営体制の確立へと試行錯誤している時でもあった。英医ウィリアム・ウィリスによってはじめられた西洋医学教育が、相良知安・岩佐純によってドイツ医学による教育へと方針転換されたのもそうした試行期のことである(第5、6話参照)。相良知安の部下である長谷川は、不用となったウィリスを「いじめ」で追い出そうとしたとも言われる。校長の相良が冤罪で獄に下った時期には一時的に「校長心得」に就任した。

相良知安、岩佐純、長谷川泰、そして佐倉から迎えられた佐藤尚中と、この時期の東大医学部は、順天堂閥が牛耳っていた。しかし佐藤がお雇い外国人ミュルレルらと意見が合わず辞任し、岩佐が侍医となって宮中へ去ると(いずれも明治5年=1872年)、状況は変わってきた。明治7年(1874年)9月、相良は校長を突然解任された。文部大輔・田中不二麿が省内刷新を図ったことが関係しているとも言われる。相良の股肱の臣である長谷川も長崎医学校校長に左遷された。長崎医学校は「台湾出兵」(「征台の役」)の軍陣病院に転用されるために閉校が決まっていた。ここで長谷川校長と文部省の間にトラブルがあったため着任からわずか2カ月で解任されてしまう。文部省公務員としての身分も喪失した(第8話参照)。

帰京した長谷川は明治9年(1876年)に済生学舎を起こすのだが、以後は医学校経営だけに専念した、というわけではない。東京府病院長、脚気病院事務長、東京府衛生課出仕、内務省御用係、東京地方衛生会委員、内務省衛生局長などを務めている。また、衆議院議員選挙で第1回から第3回まで(明治23年から明治27年)新潟5区から選出された。

明治24年(1891年)2月には衆議院で京都帝国大学創設を提議する演説を行ったことは有名である。いわく、「帝国の高等教育すなわち大学を二つ―東西両京に各大学を一つ、しこうして東西両京に大学予備門一つあてを設けることが、この日本の学問の進歩を増し、すなわち学術の真理を発見してわが帝国の光を外国に輝かすにはこの二つより他はない」と。高等教育が東大だけの独裁体制では、学問の進歩は停滞するというのである。ただし、この演説の主旨は、文部省は帝国大学以外の学校の設置運営から手を引いて民間に任せよ、という暴論なのである。かつての古巣であり、かつ自分を放逐した文部省に対する批判をこの後も繰り返すのである。

また、京都帝国大学に医科大学を設置する件については、京都府立医学校(現・京都府立医科大学)の吸収により作ろうとした当初原案が、全設備を新設することに変更されたのは、後藤新平・内務省衛生局長から依頼された長谷川泰が文部省と交渉した結果である。