第20話 長谷川泰と「済生学舎」 ~私立医学校の興亡 (5) ~

済生学舎の設立

済生学舎は明治9年(1876年)4月に開学した。医術開業試験が明治8年(1875年)に三府(東京、京都、大阪)で始まり、翌年からは全国に拡大実施されていく、その制度に素早く対応したものだ。東京都公文書館の『都史紀要11東京の理科系大学』に収録された「私学開業願」(明治8年12月24日付)では

私学位置 第四大区四小区本郷元町一丁目六十六番地

とあり、申請者は

第四大区四小区本郷元町一丁目六十六番地寄留 新潟県士族 長谷川泰

とある。つまりこの時点での済生学舎は長谷川の居宅かまたは敷地内で開校することになっていた。

この「本郷元町1-66」は当時の「大区小区制」での番地であり、明治11年(1878年)に「郡区町村編制法」が施行されると「本郷区元町1丁目10番地」となった。現在の文京区本郷2丁目3-10にあたる。ここに掲載した地図で①で示した赤丸の位置である。

明治二十九年五月調査東京市本郷区全図(部分)資料提供:公益財団法人特別区協議会

明治二十九年五月調査東京市本郷区全図(部分)
資料提供:公益財団法人特別区協議会
①開校時の済生学舎の位置(=長谷川泰の居宅)
②開校時の「外塾」があったあたり
③外塾焼失後に新規開校した校地
④東京医学専門学校済生学舎・蘇門病院(明治 15 年以降)
㋐は女子高等師範学校(現在は東京医科歯科大学・病院)
㋑は順天堂病院

「済生学舎発祥の地」の案内板

「済生学舎発祥の地」の案内板
前掲地図の①の地点には文京区教育委員会による
「発祥の地」の案内板が立っている。
後ろは順天堂大学センチュリータワー。

5月になると「外塾」なるものを新設して学校機能はそちらに移り、収容力が増したため入学者の追加募集が行われた。長谷川邸から離れた場所に設置したから「外塾」と呼んだのである。離れた場所とはどこか。

その場所について、そこに通った詫摩武彦という医師は、「水道橋の側(現今の府立工芸学校の隣地)」と言っている。また横手千代之助(東大名誉教授)は10歳ごろの記憶で、「水道橋から春日町の方へ向かってスグ何でも右へ細い路地を入って行ったと思います」と言う。入澤達吉(東大名誉教授)は「絵図を繰って見ると元町二丁目です。すなわち造兵廠の向かいにあったのです」と言っている。これらの証言から推測される場所を前掲の地図に②として示した。

その当時の様子を詫摩は「生徒も百名足らずの少数であり、学科も講義のみで実験用の設備などはなかった。診断の練習には長谷川先生の元町一丁目の自宅に五、六名ずつ招かれて打診、聴診を親しく教えられた」と述べている。このような小規模でアットホームな雰囲気から医学校は始まった。

明治12年(1879年)12月に「外塾」で火災が発生したため、長谷川邸の隣地(元町一丁目11番地)を買収してここを校舎・宿舎にした(前掲地図の③)。入澤が、「(長谷川先生の)お宅のうしろの方には外塾というのがあり(本当の塾は下の焼けた所にありましたが)…」と言っているのはこの頃のことだ。「下の」というのは、長谷川邸がある本郷台地から見て坂下の水道橋方面を指して言ったもので、先ほど述べた「元町二丁目」である。

冒頭の表でわかるように、明治10年代は生徒数が急伸した時期である。「医師試験規則」が定められ(明治12年=1879年)、試験内容・実施について内務省が統制を強め、更に「医術開業試験規則」(明治16年=1883年)で試験内容を高度化していった時期である。試験の高度化に対応できる医学校に生徒が集まり、弱小医学校は淘汰されていった。

済生学舎門前(澤弌氏筆雪蛍録)

済生学舎門前(澤弌氏筆雪蛍録)
日本医事新報社『近代名医一夕話』より転載

済生学舎は生徒が増えて狭隘となったため明治15年(1882年)に湯島4丁目に移転した。これは現在、東京医科歯科大学の向かいの東京ガーデンパレスがあるところである。

東京女子医科大学創設者の吉岡弥生(明治22年=1889年入学)は「建物が古くて汚いのにちょっとびっくりしましたが、昔の旗本屋敷のあとらしく、黒い冠木門を持った相当大きな構えの学校でありました」と、その第一印象を語っている。澤弌の描く門前の様子からも、武家屋敷をリフォームした学校であることがわかる。

明治28年(1895年)の建物配置図を見ると、前期試験対策用と、後期試験対策用の2つの講堂のほか、実験・実習用と臨床講義用の建物があり、また「蘇門病院」とその病室が付属しているのもわかる。

「蘇門病院」は明治16年(1883年)に設立された実習用病院である。施療病院であり、患者から診察料はとらず、かわりに臨床講義の材となり、死亡した場合は解剖に献体される。

第16話で述べたように、明治16年に「医術開業試験規則」が制定されて、翌年以降の試験は制度・内容が大きく変わることになった。試験内容は高度化し、基礎科目の前期試験と、臨床科目の後期試験で構成される。後期では臨床実験(実技試験)も実施される。だから臨床実習を行うために実習病院が必要になり、これに対応できない私立医学校は退場せざるを得なかったのだが、湯島移転で校地に余裕ができた済生学舎は即座にこれに対応したのである。

また後で見るように、講師陣は東大医学部を出た若い医学士を低給で集めたから、医学の進歩を採り入れた最新の医学情報を提供することもできた。済生学舎が多くの生徒を集め、長期にわたって存続したその「強み」は、

済生学舎の建物配置図 日本医事新報社『近代名医一夕話』より

済生学舎の建物配置図
日本医事新報社『近代名医一夕話』より

①東大医学部出身者を多数揃えた講師陣
②次第に充実する設備

と言うことができる。また、

③柔軟なカリキュラム、ゆるい規則

という点も重要である。カリキュラムは定められているが、生徒は各自自分に必要な講義だけを聴けばよい。修業年限はあるが、医術開業試験に合格した時が卒業である。入学するために学歴は不問である。

こうしたことは「学則」とか「届出」といった文書を見ていてもわからない。たとえば明治20年(1887年)に提出された「特別認可学校書類」(在学生が徴兵猶予される学校となるための申請書)では、入学資格は「尋常中学を卒業したる者」とあり、入試科目を列記し、60点以上という合格基準まで記載されている。しかし実際は授業料さえ払えば誰でも入学できた。

吉岡弥生がこの学校に入学したのは、第1志望の高等師範女子部(現・お茶の水女子大学)には「いろいろとむずかしい資格があって私のように田舎にいて学問のおくれた者は駄目だということがわかって」、父も医者であり二人の兄も医者を目指しているから医者になろうと決意し、「済生学舎に入学試験がなく、私のような学歴のない者でも自由にはいることができたからでありました」と言っている。学歴を積み重ねて到達する近代的職業世界。官立学校に用意されたこの社会的上昇の本道とは別の道=捷径(バイパス)を私立学校が提供したことがわかるエピソードである。
ともかく済生学舎の教育の実態は、講師・生徒だった人の話を聞かなければわからない。