第20話 長谷川泰と「済生学舎」 ~私立医学校の興亡 (5) ~

生徒の実態

入学手続きは書類と学費を納めるだけ、聴講券が与えられるのでそれでいくらでも講義を聴講できた。講師が各自都合の良い時間に講義をするのだから、早朝も夜間も講義がある。だから生徒はみな済生学舎の近くに下宿したが、学友のたまり場になるのを嫌ってやや離れて下宿する者も少数いた。澤弌(鎌倉市在住)は朝から晩まで講義を聴いたと言う。

私も朝から晩まで講義を聴いていましたが、そうしますと前期なり後期なりを、一年でもって三年くらいのものを全部聴いてしまうことができて、私のような晩学の者には非常に都合のよい学校でした。

岡田久男(日本医師会理事)も「午前5時から午後9時までぶっとおしで聴講した」ので、実質2年間で後期試験まで合格した。だから貧困学生にとってありがたい学校だったと言う。そして

まるで相反する生徒が混っていて、一方は待合などへも足を入れている側です。世間ではそういう人ばかり見て、いかにも済生学舎はだらしないかのように思ったのですが、少なくとも我々の連中は早朝から晩まで専心勉強したのです。

医学生に付きまとう堕落学生のイメージ、それは一部の生徒だけだという。

試験予備校だから、修業年限は有名無実だったことは当然だ。吉岡の言。

当時の済生学舎の組織では、学校自身の進級というものがなく、内務省の開業試験にうかれば、半年でもそれで卒業ということになっていましたが、その代わりに、もし試験にうからなければ、五年でも六年でも学校に通って、同じ講義を繰り返し聞くことになっていたのでした。

後期試験の実技試験対策を行ったのは200人くらい収容の階段教室になった臨床講堂だった。蘇門病院からの患者が横たえられ、講師が診察して説明し、学生のうち「当番」にあたった者にさまざまな質問をするという形式で行われた。しかし聴講者があまりにも多くて学習効果が薄いため、別料金で3カ月の講習会がひらかれた、と吉岡は言っている。