100人以上の女医を養成
済生学舎は女子の入学を許し、100人以上の女医を誕生させたことでも有名である。ただし、「男女共学」などと言ってもそれは結果としてそうなったのであり、確固とした方針として行ったわけではなさそうだ。だから、共学であることが障害になると認識されれば、あっさりと女子入学を禁止し、在学女学生を放逐してしまうのである。
女性に門戸を開いたのは、学校側ではなく、高橋瑞子(みずこ)という豪傑肌の女性だった。高橋瑞子は愛知・西尾の藩士の娘に生まれたが、家が没落したため、収入の多い医師になることを目指した。しかし資金がないためまずは産婆となって学費を稼ぎ、女性の医術開業試験受験が認められた明治17年(1884年)医学校に入学するために上京した。32歳である。
済生学舎は女性を入学させていなかったのだが、高橋は校長の長谷川に直談判して入学を認めさせた。なぜ済生学舎を選んだのか、それは「済生学舎は、純然たる開業試験の予備校で、月謝も毎月分納する制度になっていましたから、殊に高橋さんのように苦学しながら勉強したいという人には、万事が好都合」だった、というのが吉岡弥生の見立てである。また長谷川校長が女性を受け入れたことについては、「長谷川先生のご好意もあったでしょうが、今一つは月謝さえ納めれば男でも女でもかまわないといったような無頓着主義の現れであったかも知れません」とも述べている。高橋瑞子の体当たりの行動力と、長谷川泰の磊落で型破りな性格によって、結果として「男女共学」となった。
吉岡弥生ももちろんここで医学を学んだ。彼女の入学は明治22年(1889年)だから、高橋から5年後である。自伝によると、男子学生のさまざまな嫌がらせを被ったとある。それについて学校側は特別な対応をした様子はない。だから男女風紀問題が世間の顰蹙を買うようになると、女子学生を排除するという単純で乱暴な対処しかとれなかった。明治34年(1901年)3月のことで、男女共学は17年で途絶えた。
しかし、この女人禁制への逆行が、吉岡弥生をして女子だけの医学校をつくる切っ掛けを与えたのである。女学生の排除といい、学校そのものの唐突な廃止といい、済生学舎の粗野で乱暴な退場の仕方が新たな医学校を3つ誕生させたのだから皮肉なものである。それらの学校の設立の話の前に、済生学舎の突然の廃校について、そして医師養成制度と学校制度の変革について述べなければならない。
(第20話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)