第17話 野口英世の医術開業試験 ~私立医学校の興亡 (2) ~

医術開業試験合格者の年齢

後期試験は学説試験(学科試験)と実地試験が行われる。野口清作が受験したときの受験状況は以下の通りである。

出願者 1,219人(うち、実地試験のみの出願者300人)
試験完了者 1,084人(289人)
及第者 224人(うち、実地試験のみの受験者135人)
(他に、学説合格承認証交付の者212名)
(「官報第4347号 明治30年12月25日」による)

〈奥村1933〉は野口清作の合格について「後期試験の受験者、八十人中の合格者は僅かに四人だけであった」と言い、〈中山1978〉もそれを受けて「かくして受験者八十名中合格者四名の難関を短時日の準備でかんたんに突破した。(中略)時に清作は満二十歳、異例の若さで一人の開業医が誕生したのである」とする。この「80人中4人」は明らかに間違いで、〈星2004〉は『中外医事新報』の記事によって訂正している。

試験合格による医師の医籍登録時年齢(東京開業)

試験があったのが10月、合格は11月だから野口清作は満21歳になっていた(野口英世の誕生日は11月9日)。ここでも合格発表は11月だったことを無視して「20歳」とする伝記もある。

たとえば内閣府HPの「野口英世の生涯」は「弱冠20歳にして医師の資格を得ました」とある。会津若山市HPの「野口英世の生涯・年表」は、「見事、わずか20歳という若さで医師免許を取得しました」。いずれにしても伝記は試験合格時の野口の若さを強調する。しかしそれは「異例の若さ」なのだろうか。

右は明治30年、31年に医師開業試験に合格した者の年齢分布である。『日本杏林要覧』(明治42年刊)に収録された医師名のうち、東京で開業している者で、その免許取得方法が「試験合格」であり、医籍登録が明治30年または31年の者の集計である。

該当する者は171名で、平均年齢は26.6歳である。野口は平均よりは若いことは事実だが、「異例」というほどでもない。20歳になる前に合格している者が4人いる。これくらいなら「異例」と言えるかもしれない。この4人については、他の資料(『帝国医鑑第一編(明治43年)』または『日本医籍録(大正14年)』)でも年齢が確認できた。4人の氏名や出身地などを掲げておこう。出身地はさまざまで、士族・平民各2名である。なお、4人目の「本多友長」の開業地は新潟県であるが、『日本杏林要覧』の時点では東京に医籍があった。東大眼科選科生として修業した後台湾で開業し、その後大正4年に新潟県長岡市で開業した。

野口清作は開業試験合格後、順天堂医院勤務を経て、北里柴三郎の伝染病研究所の助手となる。ここで、来日したフレキスナー博士の通訳を任された。この時の縁で後に渡米して博士の助手にしてもらい、野口の研究生活が始まる。以後の生涯は各伝記にまかせよう。

なお、「野口英世」への改名は明治31年(1898年)である。坪内逍遥『当世書生気質』がきっかけだそうだ。『小説神髄』の実践版として書かれたこの小説の中に、医師志望でありながら放蕩して堕落していく「野々口精作」いう人物が登場する。明治18年(1885年)に書かれたこの作品を、明治31年に読んだ野口清作は、自分に余りにも似た名前が不快だったので、「英世」と改名したという。

(第17話おわり)