第17話 野口英世の医術開業試験 ~私立医学校の興亡 (2) ~

前期試験に合格したのはいつなのか

野口清作が受験した明治29年の「第二回医術開業試験」は、4月21日に告示された。6月、志願者は居住地の地方庁を通じて出願する。野口は、帰国して間もない渡部鼎に「修学の履歴書」(1年半以上医学を学んでいることが出願要件である)を書いてもらって出願しただろう。受験者は試験前日までに上京して受験料を払う。前期受験料は3円である(翌年から5円に値上げされた)。

猪苗代高等小学校時代の野口英世(右)

野口英世の前期試験及第証書
写真提供:公益財団法人野口英世記念会

試験は10月2日開始であるが、いくつかのグループに分かれて受験する。野口の受験したのは「十月十二・三日か十四・五日の何れか」と石原理年氏は推定している。出願者1,651人、受験者1,257人で、合格者は400人だった。合格率32%である(「官報 第4048号 明治29年12月24日」による)。合格者は11月7日または21日に「及第之証」を授与された。野口は11月21日付けの及第証書を受け取った。

各伝記が「十月に合格」としているのは大雑把な記述で、実際は11月に合格証を受け取ったのである。ただし、合格の通知はそれ以前にあっただろう。その詳しい日はわからないが、野口より6年前に受験した吉岡弥生の事例が参考になる。

吉岡(結婚前だから「鷲山」だが)が前期試験を受験した明治23年(1890年)第一回医術開業試験は4月10日に始まった。吉岡のもとには「その年の五月、試験の結果の発表があって、合格の通知をうけとった」と自伝にある。

吉岡の日付に6か月を加えれば野口の日付になる。すると11月に合格通知が届いたことになる。それが11月早々ならば、「実は、漸う前期試験に合格しましたから・・・」ということになるが、通知が中旬ならば、この言葉か、血脇訪問の日付(11月3日)の何れかが事実でないことになる。

また、吉岡が「合格の通知をうけとった」と言っていることからすると、合格通知が郵送されてくるらしい。それを確実に受け取るために、地方から上京して受験する者は「期限までに試験挙行の地方に着し、宿所氏名をその地方庁へ届け出」ることになっていた(医術開業試験受験人心得。『医業必携』1887年)。合格通知は届け出た宿所に郵送されてくる。だから、〈奥村1933〉の言うように「在京の故郷の人達を、次から次に訪ねて・・・」、などということはあり得ないのである。

要するに、血脇訪問は前期試験合格の直後か、以前であって、合格したことに舞い上がって遊興を尽くして散財したというような時間はなかったはずだ。

血脇訪問は金の問題であることには変わりはないだろうが、遊興の果てに無一文になって泣きついたというのではなく、後期試験受験に向けての生活基盤づくりが目的だったのではないだろうか。もともと40円あって、「遊興」などしなかったとしても、今のままでは後期試験まではもたない。1年後に受験するとすれば、どうしても100円近い金が生活費として必要なのである。そこで、会津若松の会陽医院と同様に、高山歯科医学院に寄食して後期試験に備えようとしたのだろう。