第17話 野口英世の医術開業試験 ~私立医学校の興亡 (2) ~

「代用教員」という身分

小学校教員の不足を補うために「無免許」の代用教員も雇用されたと述べた。先の表の小学校教員の給与は「正教員」のものである。「准教員」、「雇教員」はこれより低い俸給で働いた。別の統計(『文部省年報明治30年度』)によると、福島県の尋常小学校本科教員の平均月俸は、正教員で11.5円、准教員は7.2円である。代用教員のそれは記載されていないが、これより更に低かったことは当然だろう。だから、学力はありながら、さしあたってすることのない者にとって代用教員になるのはハードルは高くはなかったようである。

高等小学校を優秀な成績で出て、中学校や実業学校に進学するのでもなく、また家業に身を入れているわけでもない農家の若者などがいれば、すぐに授業生、雇教員、代用教員など、いろいろに呼ばれる「正規」ではない教師の口がかかってきた。とくに農村部では、高い給料が出せないために、師範学校出はなかなか来てくれなかったからなおさらである。(天野郁夫・前掲書)

先に紹介した、兵庫県下の高等小学校卒業者の進路状況では885人中、就職者が441人いる。商業従事(164人)と農業従事(130人)が圧倒的に多く、この二者で就職者の2/3を占めるのだが、次に多いのは「授業生」の75人である。これが「代用教員」である。師範学校へ進学した者12人の6倍強が代用教員となっている。

猪苗代高等小学校を優秀な成績で卒業した野口清作には、代用教員になるというのが最も自然な進路だったと思われる。ただし、その将来はあまり期待できない。代用教員になった者は、教員を勤めながら勉強し、教員試験検定を受けて「准教員」、「正教員」へとキャリアアップを目指すのだが、正教員になれたとしても、すでに述べたように給与は低く、社会的評価も低い。代用教員をしながら勉強を続けて中学校、専門学校への進学をめざすという道もあるが、こちらは相当の学資が必要になる。そのような境遇で挫折していく青年を描いたのが田山花袋の『田舎教師』(明治42年=1909年発表)であった。

野口は「医家書生」という進路を選択した。ちなみに、先に参照した兵庫県下の高等小学校卒業者の進路状況では就職者の中に「医業見習9人」とある。これが「医家書生」である。全体のわずかに1%だが、ありえない進路ではなかった。官公立にせよ、私立にせよ、経済的事情で医学校に進学できない、それでも医者になりたいという人たちである。

野口清作の進路選択については、奥村鶴吉編『野口英世』(昭和8年。以下〈奥村1933〉と略記)では、野口自身が高等小学校在学時に受けた左手の回復手術の体験から、「将来自ら医者として立とうという一念が火の如く彼の胸に燃えあがってきた」ところに、恩師・小林栄が「医者は仁術とも言って、多くの人を救うことのできる、尊い職業なんだ」と勧めたことで決定したことになっている。また中山茂著『野口英世』(昭和53年。以下〈中山1978〉)や星良一著『野口英世の生きかた』(平成16年。以下〈星2004〉)では、どの進路をとったにしても左手の障害がネックになるから、「開業医としての生活を築くコースが、小林にはほとんど唯一無二の進路に見えたのだと考えられる」(中山茂)とする。

たしかに、障害を抱えていては、代用教員は勤められても、その先のキャリアアップは困難だったろう。明治19年(1886年)の「師範学校令」に付随して定められた「尋常師範学校生徒募集規則」第一条は入学者について、まず第一に「身体強健にして…」とあるから、師範学校入学はおぼつかない。入学者の選考基準は、「才知・品行・学力・年齢・身体・性質の六者を斟酌検定して、而して後入学の許諾を決する」のである。また、教員検定によって教員免許を得ようとしても、検定でも身体検査が行われ、この段階で不合格になる人もいたようだ。

実際に野口と小林でどんなやりとりがあったのは到底知りえないが、「医聖」と言われる人の伝記だから、ここは確たる信念による選択であるように記述しなければならないだろう。しかし例えば、漠とした学問への憧れという動機は考えられないだろうか。級友たちのように若松中学へ進学することは叶わない夢であるが、山深い学校で代用教員になるよりは、「学問」の近くに身を置き、勉強を続けるための手段として「医家書生」という身分を選んだということもあるのではないか。会津若松の会陽医院に住み込んでから、医学の勉強だけでなく、英語やフランス語という開業医になるにはあまり役に立ちそうもない外国語を学んだのは、こうした文脈に置いてみれば得心できるだろう。

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