第17話 野口英世の医術開業試験 ~私立医学校の興亡 (2) ~

前期試験合格で羽目を外したのか

明治29年(1896年)9月、野口清作は医術開業試験の前期試験を受けるために上京した。会陽医院に住み込んで3年が経過していた。

前期試験の受験・合格については、どの伝記もあっさりとしか書かれていない。

その翌月、すなわち明治二十九年十月、彼は難なく医術開業前期試験に合格した。〈奥村1933〉
その課目は物理学、化学、生理学、解剖学の四科目で、翌十月に試験を受けて、見事パスしている。〈中山1978〉
上野駅で降りた英世は東京の賑わいに度肝を抜かれた。方々歩き回って安い下宿屋を捜し、十月の医師開業試験に備えた。いずれも自信のある課目だったので、試験問題はすらすらと解くことができた。〈星2004〉

そしてこのあと、生活費がなくなって11月3日の紀元節に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)の血脇守之助を訪ねるというように書かれている。

彼の僅かな所持金は、大半その間の下宿代に支払ったので、嚢中は急にさみしさを覚えた。彼が唯一の頼みとした郷里からの学費の補助はどうしたことか月を越えても送金されなかったので、彼は在京の故郷の人達を、次から次に訪ねて、僅かにその日その日をつないで来た。〈奥村1933〉

ここでは金がなくなったのは下宿代などに消えたので仕方がなかったように書かれているが、〈中山1978〉では「二か月の東京滞在で四十円もの大金を消費するとは、どうかしている」と断罪し、野口の「一生を貫いて発揮される経済観念の欠如」が早くも発現したと言う。

東京での生活費

では東京での生活はどれだけの金銭を必要としたのだろうか。この表は『東京遊学案内』の明治29年版で紹介している生活費を表にしたものである。費目に食費がないのは、寄宿舎でも下宿でも賄い付きだからである。小腹がすいたら雑費から焼き芋を買えばいいとアドバイスしている。野口は学校に行っていないから学費などは不要で、下宿代が主な出費であり、9月から11月までを支払っても10円ほどである。このほか、前期試験の受験料で3円を支出した。東京へ出てくるまでの交通費は、当時東京・福島間の乗車賃が1円65銭だからたいしたことはない。東京で人力車に乗っても、辻待ちなら5~6銭程度である。

〈奥村1933〉は、上京する際に野口がもらった餞別については23円分しか述べていない。普通に生活していても11月にもなれば、「嚢中は急にさみしさを覚えた」ことは納得がいく。〈中山1978〉は40円を所持して上京したとしているから、それの大半を消費してしまったのなら確かに「どうかしている」ことだろう。しかしそれをどう消費したかは書かれていない。

東京歯科大学HPの「血脇守之助と野口英世~不思議なる縁~」はこう記している。

明治29年10月、いよいよ上京した清作は第一のハードルである医術開業試験の前期試験に合格した。次の目標は、実地を含む後期試験である。ところが、清作にとって東京は何かと珍しいものばかりで、遊興にうつつをぬかしている間に、郷里の恩師や友人達が用立ててくれた40円という資金をまたたくまに使い果たしてしまったのである。困った清作は、高山歯科医学院に血脇を訪ねた。

ここでは「遊興」で蕩尽したと踏み込んで書いている。確かに、就職後の野口の散財ぶりからすればそう書きたくなるだろう。しかし「遊興」とは具体的に何だったのかは語られない。

〈奥村1933〉には、11月3日に血脇を訪ねた野口はこう言ったと書かれている。

「実は、漸う前期試験に合格しましたから、これから暫く東京に止まって、勉強したいと思うのですが、学費は無し、困っています」

いずれにしても合格→散財→金欠→血脇訪問、という順序である。しかし果たしてそうだろうか。医術開業試験の日程をたどってみよう。