第17話 野口英世の医術開業試験 ~私立医学校の興亡 (2) ~

野口英世の進路選択

今話では「医家書生」の例として野口英世をとりあげよう。

野口英世についてはいくつもの伝記があるので、その生涯については広く知られている。「医聖」などという冠を付けられることもあるこの人の生涯は多くの伝説に包まれている。少年時の事故による左手の障害と貧困を克服して世界的な医学研究者になった、努力・忍耐の物語は教科書にも児童書にも恰好の題材を提供した。一方で、その金銭感覚の欠如、たかり根性、自己顕示欲など、「医聖」の枠には収まらない強烈な個性もよく知られている。刻苦勉励と放蕩懶惰が一つの人格に同居している稀有な存在、勤勉家と浪費家の二つの顔を持つこの人物は、われわれの理解を超えている。

ここでは、よく知られた野口の生涯を述べることはせず、医師を志望してから医術開業試験に合格するまでの期間に限ってたどってみよう。その時期は「野口英世」と改名する以前のことだから、ここでは「野口清作」と表記することにする。

福島県耶麻郡三ッ和村に生まれた野口清作は、三ッ和小学校卒業後、猪苗代高等小学校に進み、そこを卒業した明治26年(1893年)から、会津若松の医師・渡部鼎の会陽医院に住み込んで医学を学んだ。ここにほぼ3年を費やして、明治29年(1896年)に上京して医術開業試験の前期に合格、翌年の後期試験にも合格して医師資格を得た。

猪苗代高等小学校時代の野口英世(右)

猪苗代高等小学校時代の野口英世(右)
写真提供:公益財団法人野口英世記念会

まず医師志望理由である。当時は、貧しいが成績が優秀である者には「教員」という進路選択がもっともふつうだったのではなかろうか。

高等小学校を卒業した者の進路は一般的にはどんな傾向だったのか。天野郁夫・著『学歴の社会史』には明治24年(1891年)兵庫県下の高等小学校を卒業した者の進路状況が掲載されている。調査人数は885人で、これによると、進学者は312人(35%)で、学校種の多い順に、各種学校118、中学校89、商業学校70、高等女学校22、師範学校12の順である。師範学校は小学校教員を養成する学校であるが、そこへの進学者は案外と少ない。

実は戦前の小学校教員のうち師範学校出身者は1/3程度であったと言われる。師範学校卒以外の者は、小学校教員検定に合格すれば教員になれた。その検定合格には「無試験検定」と「試験検定」の2種類があった。中学校、高等女学校の卒業者は、「無試験検定」によって小学校教員になれた。「試験検定」は、各種講習会を受講した者が実際に試験を受ける制度であるが、合格率は高くはなかったようだ。

師範学校は学費・寮費(全寮制である)ともに無料である。にもかかわらず進学者が少ないのは、卒業後は教員従事の義務があることと、後で述べるように、小学校教員の給与の安さが影響している。師範学校に進学するとは、いわば田舎での埋もれた生涯を選択するということである。

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