小学校教員は薄給
小学校教員免許にはいくつかのグレードがあって、尋常小学校だけで教えられる「尋常」と、高等小学校でも教えられる「高等」という区分、全教科を教えられる「本科」と、一部教科に限定される「専科」という区分、終身免許である「正教員」と、期限付き免許の「准教員」(問題がなければ免許は更新される)という区分があった。
いずれにしてもこれらは免許取得者であるが、実は小学校教員にはこれ以外の人がいた。「無免許教員」である。右の表では「雇教員」とされているが、一般に「代用教員」と言われた。全国では教員の2割強が、福島県では3割強が代用教員である。無免許でも教壇に立ってもらわなければならない、担任もしてもらう、それほど小学校教員は人手不足だったのである。
なぜ小学校は教員不足だったのか。それは給与が低かったからであり、それに応じて社会的威信も低かったからである。右の表は福島県の小学校と中学校の教員の給与を算出したものである。小学校教員の月俸は12円、中学校教員はその3倍の俸給をもらっていた。中学校教員は、帝国大学、高等師範学校(「師範学校」とは異なる)、高等学校(旧制)、専門学校(旧制)を卒業した者、つまり高等教育を受けた者でなければならなかった。それだから給与も高く、また社会的評価も高かった。
京都大学の滝川事件(昭和8年)の際に京大総長だった小西重直は、14歳の明治22年(1889年)の6月に、新築開校したばかりの福島県尋常中学校(現・福島県立安積高等学校)に「参観生」として入学した。新学年開始からすでに2か月も過ぎていたのを懇願して入れてもらったのである。小西を中学校へと駆り立てたのは、4月に入学した長峯という友人からの手紙であった。それによると、
田舎で郡書記や郡長と言えばなかなか威張ったものであるが、中学校という学校では郡書記ぐらいの人は最も下のほうで、先生の多くは郡長よりもえらいのだ。ここを卒業すれば何にでもなれる、というのが長峯からの通信内容の要点であった。(小西重直『感謝の生涯』)
中学校教員の社会的評価の高さが理解できるが、これにたいして小学校の教員の待遇と社会的評価は、天野氏前掲書に引用されている新聞の社説(明治39年=1906年)を読めば明らかである。いわく「(小学校教員の月俸の)十五円ないし二十円の収入は、現今の社会において、収入の最少額と言うべく、労働者の所得といえども決してこれより下ることなし。……この小額の俸給を以て父母妻子を養う者少なからざるべく、退きては家政を安んずるを得ず、進みては名誉を社会に保つに足らず、ついに社会をして、小学校教員の地位、憐れむべきを見て、重んずべく尊むべきを知らざらしむるは、偶然ならざるなり」。