ドクトル渡部と何者か
野口清作が高等小学校を卒業したあと、会津若松の渡部鼎の会陽医院の書生となったのは明治26年(1893年)だった。
渡部鼎(姓は「渡邊」と表記することもある)が医師になるまでの経歴については不明なことが多い。野口英世の各伝記で紹介されている渡部の赫赫たる履歴は、『福島県医襍録 第一編』(明治28年=1895年刊)に掲載されている「正七位/ドクトル 渡邊 鼎君(北会津郡若松町)」という記事がネタ元になっているとみられる。福島県内の医師の略歴と現況を紹介したこの本は、ほとんどの医師の記事が1、2ページであるのに、渡邊(渡部)には19ページを割いている。すでにこの時点で、アメリカ帰りのドクトル渡部として有名人であったことをうかがわせる。記事は、渡部が現在は日清戦争に出征していて「炮烟弾雨の間を馳駆して大いに殉忠報国の偉蹟を奏せり」という賛美で締めくくられている。〈奥村1933〉の「当年、近県きっての大流行医、渡部ドクトル」という表現も誇張しすぎとは言えないだろう。
しかしまさにそれ故に、この『福島県医襍録』は渡部鼎を精一杯大きく見せようとしているようだ。書かれている学歴・医師歴を列挙すると、漢方医・渡部思斎の子で、父から医学を学び、明治5年(1872年)14歳で横浜の高島大学(通常は「高島学校」と呼ぶ)に入学してジョンバラ、モリスに英学・理化学を学ぶ。翌年からセメンズとウヰリアムに医学を学び、「翌七年東京大学南校に通学し」(大学南校はこの時点では東京開成学校となっている。学部は法・理・文)、明治10年(1877年)には18歳で陸軍軍医試補となり、西南戦争に出征した。そこでは、潰走しかけた衛生隊員を叱咤して軍人並みの活躍をしたと述べられている。
明治11年(1878年)には「陸軍三等軍医」となった(明治12年の『明治官員録』で確認すると、軍医補勲六等に「フクシマ 渡邊鼎」とある)。その後明治19年(1886年)12月に渡米してカリフォルニア大学医学部で学び、「ドクトルヲブメヂシン」の学位を得て、サンフランシスコで開業したが、父・思斎が死去したため帰国、そのまま会津で会陽医院を開いたのが明治23年(1890年)6月だった。それ以来、地域の医師団体の要職を歴任し、大日本医会東京大会に会津代表として参加した時には、議長役を高木兼寛(東京慈恵会医科大学の創設者)から奪い取る活躍をしたのは「会津医士社会の名誉」であるとする。
要するに、渡部鼎は、野口英世に関係する以前から会津の名士だったのである。それだけに『福島県医襍録』の記事はいろいろと粉飾が施されていると見られる。〈中山1978〉が言うように、「西洋医学の知識のある人材の払底していたころのこととて、十分な知識のないまま軍医などの職について」、そして系統だった医学教育を受けていない力不足を補うため渡米したのだろう、といったところが実像ではないだろうか。