第18話 消えていった私立医学校 ~私立医学校の興亡 (3) ~

今回は明治前期に誕生した私立医学校を取り上げる。すでに述べたように、多くの医学校は短期間で消滅して、現在まで継続しているものはごくわずかである。まずは歴史の波間に消えていった医学校をいくつか紹介しよう。

立ち話からできた「慶應義塾医学所」

松山棟庵 『写真集 慶應義塾150年』より転載

松山棟庵
『写真集 慶應義塾150年』より転載

福沢諭吉が三田の慶應義塾に「医学所」を開設したのは明治6年(1873年)10月だった。これは現在の慶応義塾大学医学部につながるものではなく、全く別個のものである。「医学所」は明治13年(1880年)6月に廃校になったが、現在の医学部の設立はそれから37年後のことである。

明治6年は、医療制度をどう定めるか、文部省(当時医療行政を所管)医務局長の長与専斎が調査研究をしている最中であった。明治7年(1874年)の「医制」の制定を経て、「医術開業試験」が三府(東京、京都、大阪)で実施されるのは明治8年(1875年)になってである。

だから、慶応義塾医学所は資格試験予備校として設立されたのではない。設立の経緯を語る有名なエピソードがある。

福沢諭吉の知人に、もと和歌山藩士の前田政四郎(後の陸軍軍医監)という人がいた。前田は福沢に馬術を教え、福沢は前田に英学を教える、という仲だった。ある日前田は、医学をしたいからドイツ語を学びたいので他校に入る、と福沢に告げた。福沢は、医学はドイツに限ったことではないと、慶応出身の松山棟庵を校長にして、英語で医学を教える学校をつくった、それが慶應義塾医学所である。

このエピソードにはいくつかのバリエーションがあるのだが、いずれにしても「ほんの立ち話程度のごく簡単なことから実現をみたのは確からしい」と『慶応義塾百年史(上巻)』は言う。

「私は金を出して塾舎を造るから、あなた(松山)は時間を出して教えてくれたまえ。ここに松山という教師があり、前田という生徒があり、それに塾舎が出来れば、医学校はすぐに開ける」という福沢の言葉が伝わっている。学校も、医師も、国家の統制がまだ十全に及んでいなかった頃なのである。医学を学べばそれだけで開業できる、例えば緒方洪庵の適塾でオランダ医書を読み込めば医者になれる、そうした医師養成の仕方がまだ通用する時代だった。福沢が3千円を出して英語の医学書を購入し、それを松山が翻訳して教えるのである。

石黒直悳から「米国崇拝者」と呼ばれた福沢は、文部省と東大がドイツ医学の採用を決定したことをあまり快く思っていなかった、それが英語による医学校設立を決断させたとも言われる。校長になった松山棟庵は、慶応義塾で英学を学んだのち、福沢の世話で大学東校(東大医学部の前身)に勤務した経験がある。明治4年(1871年)の職員録には中助教で「治療書翻訳」とある(『東京大学百年史 通史一』)。

明治4年というのは大学東校にミュルレルとホフマンが着任してドイツ医学による教育を本格的に開始した年であり(第6話参照)、松山は在職1年も満たずに大学東校を去った。福沢と松山、いずれもドイツ医学がスタンダードになっていく流れに距離を置く二人の合作がこの慶應義塾医学所であるとも言えよう。

ところが医制が制定され、医術開業試験が始まると、医学所を卒業しただけでは医師になれない、医術開業試験に合格しなければならない。それに加えて、開校時の目論見とは違ってきた次のような状況変化があった。

慶應義塾医学所の入学者数


  1. 慶応義塾本体が経営危機に陥ったこと・・・これは、西南戦争後の士族階級の没落や、物価高騰などで入学者が激減したのが原因である
  2. 公立医学校が全国各地に設立され始めた・・・第9話参照
  3. 医学の進歩にあわせて教育設備の向上が必要になった
  4. 医術開業試験が次第にレベルアップした
  5. (以上の帰結として)医学所の入学者が減少した・・・右表参照




こうして慶應義塾医学所は、明治13年(1880年)に「六月限り廃止候う」という廃校届を東京府芝区長に提出した。

慶応義塾「明治六年ごろの三田山上平面絵図」『写真集 慶應義塾150年』より転載

慶応義塾「明治六年ごろの三田山上平面絵図」
「本塾」の右に「医学所」とある(赤マル)
『写真集 慶應義塾150年』より転載


医学所のあった場所は「明治六年ごろの三田山上平面絵図」で見ると、「エンゼツカン」(演説館)の西並びにある(この図は下が東方向で「三田通リ」とある)。当時の演説館は、「現在の図書館(旧館)と塾監局との中間辺に位していた」(『慶応義塾豆百科』)から、医学所の位置は現在の第1校舎のあたりということになろう。

なお、松山棟庵は、明治8年(1875年)に東京医学会社(医学会と医師会をあわせたような会)を設立した。この会社の活動が次第に下火になっていたところ、松山は高木兼寛とともに、東京医学会社の2階で「成医会講習所」を始めることになった。英国医学にもとづく医学校である。明治14年(1881年)3月『醫事新聞』に「開業免状試験を受けんとする医生の便益を図らん」ために5月1日に開講する旨の告知が出た。これが東京慈恵会医科大学の起源である。

高木兼寛は第13話に述べたように、東大を追われ鹿児島医学校で教鞭をとる英国医ウィリアム・ウィリスに師事した。その後海軍に入り、この時は英国留学から帰朝したばかりだった。