第17話 野口英世の医術開業試験 ~私立医学校の興亡 (2) ~

後期試験対策で済生学舎に入学

後期試験対策のため、野口清作は明治30年(1897年)5月から済生学舎に通った。実地試験がある後期試験は、独学では合格は困難で、斎藤茂吉の随筆にあったように、医家書生も済生学舎のお世話になる者が多かったようだ。済生学舎の講義は早朝から深夜まで及ぶので、学生は学校の近隣に下宿した。〈奥村1933〉は、「(済生学舎の)月謝と下宿料とで月々十五円を要する」として、その金は血脇が高山歯科医学院の病院経営の経理の中から横流しした、とする。〈中山1978〉も、〈星2004〉も「月額15円」としている。

しかし先に掲げた「東京での生活費」の表を見ていただければわかるが、私立学校はだいたいどこでも月謝が1円であるから、そんなにかかるわけはない。『東京遊学案内』(明治30年版)によれば、済生学舎の束脩金(入学金)は2円、月謝が1円、他に「講堂費」30銭があった。つまり初月は3円30銭、以後は毎月1円30銭である。下宿代は3~4円であるから、毎月5~6円で学生生活ができたはずである。初月の経費に、後期試験の受験料8円(この年5円から8円に値上げされた)を加えると15円前後になるが、これを勘違いしたのだろうか。

明治30年(1897年)の第二回東京医術開業試験は10月に麹町区永楽町一丁目の試験場で行われた。ここは一般には「永楽病院」と呼ばれる病院で、この年の7月に開院したばかりである。医術開業試験の際に供用する患者を収容しておくために設立された。それまでは芝区愛宕町に試験場はあったが、実地試験に必要な患者は、東大などの病院に協力してもらっていた。その不便さを解消するため自前で病院を持ったのである。

その場所は、現在で言えば、東京駅のレンガ駅舎から丸ビルの手前にかけてである(現在は駅前の広場になっている)。東京駅が建設されることになり、明治36年、永楽病院は目白台に移転した。やがて医術開業試験が廃止されたため、病院は東京帝国大学医科大学附属医院小石川分院となった(大正6年)。戦後も東京大学医学部付属病院分院として存続したが、2001年に閉院した。現在ここには、東大の学生、留学生、外国人研究者のための宿舎「目白台インターナショナル・ビレッジ」がある。

なお、永楽病院が東京帝大に移管される際、歯科部門は分離独立して歯科医術開業試験附属病院(のちに通称「文部省歯科病院」)となった。これは、医術開業試験規則が大正5年(1916年)に改正されて、医師開業試験規則と歯科医師開業試験規則に分離したことに伴うものである。この歯科病院の初代院長は島峰徹である。大正7年(1918年)には神田区錦町に移転した。現在、学術総合センターの向かい、興和一橋ビルのところである。そして昭和3年(1928年)、ここに歯科医学の教育を行う東京高等歯科医学校が設立され、校長に島峰が就任した。この学校は昭和5年(1930年)、文京区湯島の東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の移転跡地に移った。太平洋戦争中の昭和19年(1944年)には医学科を設けて東京医学歯学専門学校となり、戦後東京医科歯科大学となって現在にいたっている。