公立医学校の廃止についての連載の最後に北海道と沖縄県のケースを取り上げたい。文部省の統計資料等にはほとんど登場しないものの、公立医学校は存在したのである。
函館におけるエルドリッジの医学校
アメリカの東インド艦隊のペリーが黒船4隻で浦賀沖にやってきたのは嘉永6年[1853年]だった。日本の開国を要求する国書を突きつけて一旦は離日したが、翌年再来して「日米和親条約」を締結し、下田と函館は翌年に開港されることになった。締結から2週間後に黒船は函館に姿を現わし、開港にむけて港湾の測量をした。またロシアのプチャーチンもこれに追随して「日露和親条約」を結んだ。安政5年[1958年]には米・英・露・仏・蘭の5カ国と「修好通商条約」が結ばれ、函館では、外国人が居留し、外国商人が交易活動を行うことになったのである。
そうした商人らへの支援として、また寄港する海軍軍人のためにロシア領事が函館に病院を建設する、という話がひろまった。治療診療は日本人にも施されるらしい。これに対し、日本側の箱館奉行所や日本人医師らは、「日本人の治療は日本人がすべきである」と、協力して箱館医学所を設立しようと考えた。万延元年[1860年]から工事を始め文久元年[1860年]に開所した。これが北海道初の「医学所」である。ただし「医学所」とはいっても、医師養成機関ではなく、在職医師の補習講習や医学研究、遊女の検梅(定期的な梅毒検査)と治療、貧民救療などが主な役割であったようだ。
明治元年[1868年]、明治新政府は箱館奉行所を廃止して「箱館府」を設置した。これに伴い、箱館医学所は「箱館府民政方病院」となった。しかし榎本武揚軍が函館に襲来して函館戦争が起こると、この病院は榎本軍に占領されて「箱館病院」となった。
病院頭取(院長)に就いたのは高松凌雲だった。適塾などで蘭方医学を学んだ凌雲は江戸幕府の奥医師(将軍や奥向きの人々の侍医)となり、また幕命でフランス留学をした人物である。戊辰戦争勃発の報を受けて帰国した凌雲は榎本軍に参加した。箱館病院では、敵味方を問わず負傷者の治療を行った。フランス留学時に赤十字の活動を見てきたことがこうした行動の背景にあったと言われる。凌雲は後に東京で貧民救療のための「同愛社」を設立した。
箱館戦争終結後、函館病院は「開拓使」の管理下に入った。「開拓使」とは北海道の開拓や行政を統括する国の出先機関であるから、函館病院は「官立」となったことになる。北海道全域の官立病院の統括を行う機能を持たされた。
榎本に降伏を勧め、五稜郭を無血開城させた黒田清隆が開拓使の次官(実質的な総責任者)となった。黒田は、北海道開拓の研究のため明治4年[1871年]1月に渡米し、米国農務長官ホーレス・ケプロンを開拓使顧問として招聘することに成功した。そのケプロンの随行員のひとりにスチュワート・エルドリッジという医師がいた。
明治5年[1872年]4月に函館に赴任したエルドリッジの使命は、函館病院の運営改善、札幌の新病院の設計などであった。そして函館病院内に「函館医学所」を設立した(「開拓使医学校」とも呼ばれる)。講義はすべて彼一人で行った。週6日間、毎日1課目2時間の講義があったほか、物理学・化学などの補習、臨床の見学なども行われた。しかし明治7年[1874年]11月に契約期間が切れたエルドリッジが函館を離れると、この函館医学所は自然と廃校になった。ただし函館病院内で日本人による医学教授は続けられていたようだ。