第15話 公立医学校廃止の諸相(4)~北海道と沖縄の医学校~

県外へ出た人々

卒業生の大部分は沖縄の医療を担ったが、県外に転出した者もいた。

上表は『日本杏林要覧』などの医師名簿の沖縄県以外に掲載されている医生教習所卒業者である。

まず目立つのは⑦~⑬の7人で、鹿児島県の奄美群島で医業に従事している。いずれも鹿児島を本籍としており(⑬は未確認)、もともとこれら離島から沖縄に来て医学を学び、医師免許後に出身島へ戻ったと思われる。帰島する前に沖縄で勤務・開業していることが確認できる者もあるが、これは医生教習所の「給費生」として学び、卒後の県内就業義務のため数年間は沖縄にとどまったのだろう。

これだけまとまった人数が奄美の離島の医師となったということは、沖縄の医生教習所の医師養成機能が県内にとどまらず、奄美離島までも守備範囲としていたということになる。

これを除けば他県転出例は少ない。北海道や台湾に渡った人々、東京で開業している人、それぞれの経緯があったことだろう。

東京で開業している⑰の渡口精鴻 (とぐち・せいこう)は沖縄初の医学博士と言われる人物である。医師免許取得後に上京し伝染病研究所で百日咳やインフルエンザの研究を行い、大正12年[1923年]に学位を受領した。

銘苅正太郎は『日本医籍録』の大正14年版には掲載がないが、昭和9年版を参照すると、医生教習所の次に熊本医学校に転じて開業試験に合格した(沖縄→熊本というルートは表中の①、④にも見られる)。その後、山梨県立病院、福島県須賀川病院、会津若松市桑原病院に勤務した後、大正5年[1916年]に六本木に開業した。

⑭の伊江朝貞は、植村正久の東京神学社に学んだ、宣教師にして医師。沖縄と台湾で布教と医業に励んだ人物である。

次のページ:それでも廃止せざるを得なかった「医師法」の成立 »