第15話 公立医学校廃止の諸相(4)~北海道と沖縄の医学校~

挫折が続いた北海道の医学校

その後、北海道の医師は他所から招くしかなく、常に欠員の憂いがあったから、自前の養成機関を持たねばならないと「開拓使」が考えるのは当然で、函館と札幌の医学校廃校から4年後の明治11年[1878年]春に函館病院で医学教授が始まった。予科3期、本科5期の合計8期4年の学校である。しかしこれは11月の大火事で類焼したため廃校となってしまう。

次に医学所が設立されたのは明治13年[1880年]9月で、やはり函館病院内である。明治15年[1882年]2月に「開拓使」が廃止されて札幌、函館、根室の3県が設置されると、この医学所は「県立函館病院医学所」(のち「県立函館医学所」)となった。4年制で、物理、化学、解剖、生理、病理、薬剤、内科、外科、産科、察病、断訟医学等の課目が教授された。しかし設備は充分でなく、所長と教員の3人は病院との兼務、生徒数は9人だった。

県立函館医学所は明治16年までは「専門学校」に分類されていたが、明治17年[1884年]からは「各種学校」に分類され「函館病院付属医学講習所」と改称した。その理由は教育レベルが低いので主務省(内務省と文部省)に伺いを立てた結果だという(「明治17年函館県年報」)。これ以降、文部省の学校一覧では、北海道には医学校は存在しないことになる。第9話に掲載した公立医学校の一覧で「函館医学校」の廃止年が「明治17年」となっているのはこうした事情なのである。

これは明治15年[1882年]に「医学校通則」が制定されたことに起因している。医学校通則によれば「医学校」(甲種でも乙種でも)と称するには、教員、カリキュラム、設備、入学生徒のレベルなど一定の基準を満たさなければならない。それができないので「医学校」という専門学校ではなく、「医学講習所」という各種学校として存続しようとしたのである。生徒は医術開業試験を受験するか、一定の学業を積んでから他の甲種医学校に転入するというルートを目指すことになる。医術開業試験受験のためならば、東京の「済生学舎」の方が有利と見て、そちらに転学する者もあった。

更に、明治19年[1886年]1月に函館県が廃止され北海道庁が設置されて、医学講習所は道立となったものの、この医学講習所は明治21年[1888年]3月に廃止されてしまう。

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