第15話 公立医学校廃止の諸相(4)~北海道と沖縄の医学校~

沖縄県の医師養成

『北海道医学教育史攷』の著者は函館医学講習所の廃止について、「厳密に言えば、各種学校であって医学校ではないのであるから(勅令第48号に従って)廃校にしなくてもよかったようにも考えられるが」と疑問を呈している。実際に廃校にせずに存続させる道を選んだのが沖縄県である。

沖縄県が設置されたのは明治12年[1879年]だった。琉球藩時代の内務省出張所医局を沖縄県医院として、医療行政が始まった。病院勤務の医師は他県から招聘したのであって、県内には「従来開業」で医師免許を取得した漢方医ばかりであった。しかもその数も決して多くはなかった。先に掲載した表で分かるように、沖縄県の医師は極端に少なかった。明治15年[1882年]時点での医師数は、従来開業の漢方医60人を含めて全部で70人。これで36万人の県民に当らなければならない。全国水準の1/6程度であった。北海道と違って、県外からやってくる医師は多くない。この状況を少しでも改善するためには自前で医師を養成しなければならない。こうして明治18年[1885年]、沖縄県医院付属の「医生講習所」が設置された。明治22年[1889年]、沖縄県医院は「沖縄県立病院」に、医生講習所は「医生教習所」に改称した。

その段階で沖縄県立病院長に着任したのが山口秀高である。山口は明治23年[1890年]7月に帝国大学医科大学を卒業した。在学中から「哲学者」の異名をとった読書好きで、そのためか、成績は振るわず、44人の卒業者名簿の、後ろから5番目に幼名の「山口虎太郎」が記されている。これでは気の利いた就職先はないはずだったが、三宅秀(医科大学長)、長与専齋(元医科大学長)らの斡旋で沖縄県立病院にポストを得たのだった。

山口は医生教習所を医学校に発展させようとして、入学資格の厳格化やカリキュラム改正を行ったが、調整型人間ではなかったようで、2年半で院長を解任され東京へ帰ってしまった。山口はその後、台湾総督府衛生顧問・後藤新平の抜擢で台北病院長に就任、設立された「台湾総督府医学校」の初代校長に就任し、果たせなかった沖縄での夢を台湾で実現させた。