短命に終わった医学校と、今も残る三層楼
医学教育継続のためには、「医学校通則」に従った学校にしなければならない。山形県は済生館医学寮を乙種医学校に改組することに決定し、明治18年1月に山形医学校が開校した。教員9名の内訳は、ベルリン大学医学修業が1名、警視医学校(警視庁所管の法医学中心の医学校で明治11年に廃止)2名、東大医学部別課2名、同製薬学科1名、他3名で、いわゆる「医学士」(東大医学部本科の卒業者)はいない。乙種医学校は医学士が1名以上必要であるから、ベルリン大学医学で学んだ者が医学士に代わる者として乙種認可になったと見られる。この人物とは明治15年以来済生館館長を務めている木脇良(きわき・りょう)のことである。嘉永2年[1849年]、宮崎の佐土原藩医の子として生まれた木脇は、藩の貢進生として大学南校で学び、明治3年に藩命でドイツ・ベルリン大学へ留学している。帰国後は東京医学校などで教員として勤務している。
生徒は医学寮から転入した者43名に、5月に新規募集して11名が加わった。ところがこのころすでに他県では、財政問題から公立医学校が廃止される事例が続出していた。山形医学校はそのような時期に開校されたのである。全国で最も遅く開校した公立医学校である。
乙種医学校であるから、卒業者は国家試験である医術開業試験に合格しなければ医師になれない。明治19年、20年の試験はそれぞれ数名が合格するに留まった。20年2月には木脇校長が離職した。それを埋めるために山形県出身の医学士を採用したが、9月末には「勅令第48号」が通達され、明治21年3月の廃校が決まった。生徒の多くは、仙台医学校から転換した第二高等中学校医学部に編入した。
県会は済生館病院そのものも廃止とすべきとして、病院経費等予算を否決した。これに対し、創立者である長谷川吉郎治一族や地域の豪商・有力者は存続させようと立ち上がり、施設を借り受けて「私立済生館病院」とした。山形県としても病院は必要であるから毎年補助金を出した。しかし赤字経営が続いたため明治35年には廃止寸前となった。それを救ったのが山形市で、施設一切を県から無償で払い下げてもらい、明治37年「山形市立病院済生館」として再スタートし、現在も同じ七日町の地に存続している。
三層楼の擬洋風建築は昭和30年代まで病院として使われ続けたが、病院の全面改築のため、この明治の貴重な建築遺産は取り壊されることになった。ところが撤去が行われようとしていた昭和41年、国の重要文化財に指定され、44年までに霞城公園に移築され、「山形市郷土館(旧済生館本館)」として現存することになったのである。
明治の近代化遺産を破却の寸前から救い出すというドラマチックな奇跡を起したのは当時の市長・大久保傳蔵らしい。有識者も加わった審議会から「廃棄除去することが適当」との答申を受けたもののあきらめきれない大久保市長は東京の国立近代美術館の今泉篤男に相談した。今泉は山形県米沢市出身の美術評論家で、美術行政にも関わった美術界の権威である。今泉は済生館本館が文化財としての価値があるかどうかを文部省に調査させた。その結果の重文指定で三層楼は廃棄を免れたのである。
主な参考資料… 小形利彦・著『山形県済生館の洋学史的研究』、山形市郷土館「郷土館だより」各号
(第14話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)