第14話 公立医学校廃止の諸相(3)~青森・岩手・山形の公立医学校~

東北6県にはいずれも公立医学校が設立されたが、仙台の医学校以外はすべて廃校となった。このうち青森・岩手・山形の医学校の設立と廃校の経緯を紹介する。廃校となったものの、その遺産は現在も目にすることはできるのである。

青森医学校か弘前医学校か

森鷗外の『渋江抽斎』は弘前藩侍医・抽斎(ちゅさい)とその妻子らの史伝だが、のちに大学東校(東大医学部の前身)の教授となる小山内元洋(おさない・げんよう)について述べるところで「弘前ではこれより先、藩学稽古館に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは、江戸の杉田成卿の門人佐々木元俊である。元洋もまた杉田門から出た人で・・・」とある。

ここに言う「藩学稽古館」とは9代藩主・津軽寧親(つがる・やすちか)の時、寛政6年[1794年]に設立された藩校である。現在の東奥義塾高校は、廃藩置県で廃止されたこの藩校をのちに再興したものである。稽古館付属の「蘭学堂」は安政6年[1859年]に設置された。ここの教師・佐々木元俊(ささき・げんしゅん)は、江戸で蘭学を学び、蕃書調所(東京大学の起源のひとつ)への出仕を断り、弘前に帰って蘭学・西洋医学の普及に努めた。

本格的な西洋医学教育は明治4年1月に弘前白銀町に「医学寮」が開設されたことに始まる。東京の大学東校に倣って改組し「医学校」と称したが、9月には廃校となってしまった。この年7月に断行された廃藩置県で設立母体の「藩」がなくなってしまったからだろう。「藩」から変わった「弘前県」の大参事(県知事代理のような役職)に任命された野田豁通(のだ・ひろみち)が、弘前よりも青森の発展可能性に注目して県庁を青森に移し「青森県」にしてしまったことも関係しているかも知れない。

次に医学校の設立の動きがでてくるのは明治9年である。2月に最初の県会が青森の寺院で開かれたがここで医学校設立が議決された。県庁所在地の青森に設立すべきという意見が多かったが、議長の裁決で弘前設置と決した。こうして、弘前の「会社病院」を「弘前病院」と改称して、それに「弘前病院医学校」が付設された。明治10年開校である。教則は「大学東校」(東大医学部)のそれを参考にしたといい、修業年限は3年であった。50人の入学を予定したが、実際の入学者は30人にとどまった。

入学志願者が少ないのは弘前にあるからであって、青森の方が入学者は集まりやすいだろうという意見が出て、明治11年青森病院構内に校舎を新築して移転した。「青森病院医学校」である。明治13年5月には「専門医学校」と改称した。

ところが、である。この頃の県政界の大物は弘前出身者が多かったため、弘前に再移転を希望する声があがった。医学校第二代校長・魚住完治は「青森は低湿の地で、港町だから風俗は淫猥」など、何を今更というような意見を述べて移転論を後押ししたので移転が決定された。弘前ではこの年の5月に大規模火災があり弘前病院も焼失していたが、巨費を投じて病院を再建し、医学校は10月に青森から弘前元寺町に移転した。

明治17年、校名を「青森県医学校」とした。「医学校通則」に基づく乙種医学校であり、維持経費は年5,600円、医学士教員は1人で、校長兼務で月俸は120円と、甲種に比べれば安上がりだが、それ故か生徒は増えず、この年の生徒数は前年比19人減の54人、給費生と私費生はちょうど半々であった。

そこで、医学校を発展させるため施設の拡充をしようということになったのだが、驚くべきことにその拡充計画は、青森に再移転して校舎を新築するというものだった。しかしそれは実現されずに、明治18年3月青森県医学校は廃止された。

公立医学校を廃止させた「勅令第48号」を待たずにこの医学校が廃止されてしまったことについて西川滇八氏は「その理由は明らかでない」と述べている(「明治時代の公立医学校廃止の顛末」)。ただ、移転の度に新築を繰り返したことが、予算を審議する県会で問題視されたことは充分に考えられることだろう。