廃校後も現・岩手医大へと続く命脈
ところが廃止された岩手医学校と現在の岩手医科大学のあいだには関係がないわけではない。それは、組織体としての繋がりではなく、医学校を卒業したひとりの人物を介しての繋がりである。廃止された医学校のあった盛岡市内丸に今は岩手医科大学があるというのもこの繋がりによるのである。
明治18年に甲種医学校として初めて2人が卒業したと先述した。このうちの一人が三田俊次郎である。三田は卒業後岩手医学校の教員となったが、学校が廃止されたので東大医学部の選科生となった。東大で眼科を学んで帰郷した三田は眼科医院を開業した。その三田が、かつての県立病院が私立となったのち今は閉鎖されている、その敷地・建物を県から借り受けて私立岩手病院を開いたのが明治30年である。病院内に設置した医学講習所は明治34年に私立の「岩手医学校」となった。これが現在の岩手医科大学の起源である。
ただし、岩手医学校は医師免許制度が改正されたため明治45年に閉校せざるを得なかった。この学校は医術開業試験の受験予備校的な学校であり、その医術開業試験がやがて廃止されてしまうことになったからである。
しかし病院は存続した。大正3年に盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)を卒業した宮沢賢治はこの岩手病院に入院している。「文語詩稿」のなかの「岩手病院」はその体験を晩年になって詩作したものである。
血のいろにゆがめる月は 今宵また桜をのぼり
患者たち廊のはづれに 凶事の兆を云へり木がくれのあやなき闇を 声細くいゆきかえりて
熱植ゑし黒き綿羊 その姿いともあやしき月しろは鉛糖のごと 柱列の廊をわたれば
コカインの白きかをりを いそがしくよぎる医師ありしかもあれ春のをとめら なべて且つ耐へほゝゑみて
水銀の目盛を数へ 玲瓏の氷を割きぬ
この詩を刻んだ詩碑が岩手医科大学医学部付属病院本院の西側に建てられている。
さて医学校は昭和3年になって岩手医学専門学校として再興され、三田俊次郎が初代校長に就任した。この時代は私立医学専門学校が相次いで設立された時期であるので、のちに採りあげることになろう。岩手医学専門学校は戦後、岩手医科大学に昇格して現在に至っている。
主な参考資料… 平林香織・芳賀真理子・渡邊剛「岩手医科大学の軌跡(1)」