第14話 公立医学校廃止の諸相(3)~青森・岩手・山形の公立医学校~

山形医学校と三島通庸と、ローレッツ

三島通庸 国立国会図書館HPより転載

三島通庸
国立国会図書館HPより転載

山形県の天童村(現・天童市)の薬種豪商・佐藤伊兵衛は、幼い孫が藪医者のミスで命を落としたことを悲しみ、山形十日町(現・山形市十日町)の呉服豪商・長谷川吉郎治(のちに第八十一銀行頭取、貴族院議員)と諮って、天童村に「私立病院」を設立した。明治6年10月のことである。立地に恵まれているとは言えず、運営費にも困却したため佐藤と長谷川は、これを山形に移転して公立病院とするよう、山形県権令(副知事)に願い出た(明治6年12月)。これが認められて山形七日町(現在の山形市七日町。山形銀行本店の地)で「仮病院」として開業した。

明治7年5月、東京医学校(東大医学部)の教員・海瀬敏行(かいせ・としゆき。米沢藩出身)を招いて病院内で医学教育を始めた。これが「山形公立病院教場」である。明治8年2月豪雪のために倒壊・焼失したが、近くの七日町口に再建された。現在の山形市立病院済生館の地である。

2年契約の海瀬の後任はやはり東京医学校教員の長谷川元良(はせがわ・げんりょう)で、明治9年5月に着任した。それから3ヵ月後、山形県の初の県令(県知事)として三島通庸(みしま・みちつね)が来形した。

旧済生館本館(現・山形市郷土館)

旧済生館本館(現・山形市郷土館)

三島通庸は薩摩藩出身で、明治維新後は都城の地方官となり、その功績を認められて東京府参事に起用され都市改造計画を担当した。明治7年酒田県令となり、明治9年8月に鶴岡(酒田から改称)、山形、置賜の3県が合併して統一山形県が誕生してその初代県令に就任したのである。就任に際して内務卿・大久保利通に示した7つの県政方針のうちのひとつが、病院設立と医学教育であった。

三島は公立病院の現施設の貧弱さを嘆いて、病院新築を決断し、長谷川院長らに東京、横浜、愛知の医学校・医療施設を見学させ、明治11年に三層からなる擬洋風建築の新病院を建設した。建築費は三島自身をはじめとする官吏や住民の寄付によった。太政大臣・三条実美(さんじょう・さねとみ)が揮毫した扁額「済生館」から病院名を「済生館」に改めた。三島県令は得意の都市改造分野に辣腕を揮い、新築した山形県庁へ続く大路にいくつもの擬洋風建築を並べ建てた。その模様は高橋由一の油彩画「山形市街図」に再現されている。いわば“文明開化の視覚化”であり済生館もそのひとつとして建てられた。なお山形市のこの時代の建築では、済生館と山形県師範学校(現・教育資料館)だけが現存している。

医術開業試験は明治8年から始まっていたが、明治12年になって「医師試験規則」が制定されて全国統一の試験が実施されるようになった。済生館病院は医学寮を付属させて医学教育を実施してきたが、ここにきてそれを本格化させることになった。明治13年のローレッツの招聘はその一環とみられる。

山形市郷土館のローレッツ顕彰碑

山形市郷土館の
ローレッツ顕彰碑

アルブレヒト・フォン・ローレッツはオーストリア人で、ウィーン大学で医学を学んだ。明治7年に来日し、愛知県公立医学講習場(名古屋大学医学部の起源)で教えた後、明治13年4月から金沢医学校(金沢大学医学部の起源)で教鞭をとっていた。それが、なぜかわからないがわずか4ヶ月後に山形に転じた。ローレッツが着任すると、医学寮規則が整備され、学期が定められ、それまで7,8名だった定員は30名となった。

しかし明治15年に変化が起きた。三島県令は1月に福島県令兼任となって福島へ移り、7月からは福島県令専任となった。県会では高額な外国人教師の雇用を疑問視する声がでてきた。5月に通知された「医学校通則」は教員の条件を医学士(甲種は3名、乙種は1名)と定めており、日本人医学士を雇用すればよいのであり、月給300円の外国人医師は無用の長物、月給120円程度で招聘できる日本人医学士で充分、と考えても不思議はない。7月下旬、ローレッツは東京へ去り、秋には母国へ帰った。

県令不在、ローレッツ退任、館長の辞任、それに教員の転出・退任が相次いで、済生館医学寮は一時機能不全に陥ったようだ。9月の生徒募集は25名募集に対して入学者は8名だった。