県立岩手医学校と岩手医科大学
岩手県では盛岡藩(南部藩)の藩校「作人館」の医学所が明治初頭に、廃藩置県と学制頒布によって廃校になった。
その後、県立医学校が明治9年に盛岡医学校として設立され、まもなく盛岡病院付属の医学所となった。その場所は「陸中国南巌手郡仁王村内丸」で、今の盛岡市内丸、すなわち現在の岩手医科大学(私立)の所在地である(ただし現在大学機能のほとんどは盛岡郊外の矢巾に移転、付属病院も2019年に矢巾に移転する予定である)。県東部の岩泉、南部の一関にも「支院(分院)」を置き、ここでは師範学校の教師などを使って「予科」(医学校本科入学のための準備教育)の教育もしていたらしい(この支院は明治12年に廃止)。
当初は学年制ではなく、一科を修了して次の一科を学ぶというシステムだった。明治10年に校長を東京に派遣して他の医学校を調査見学させ、その調査結果をもとにして明治11年に履修科目を補充し4カ年の学年制に改めた。明治12年には医学所を独立させて岩手医学校とし、病院はその付属とした。
明治15年の「医学校通則」公布を受けて甲種医学校となることを目指すが、前途多難であった。甲種になるには医学士教員3人以上が必要だが、この時点での教員には医学士(東大医学部卒業者)は1人しかいない。この年は県下の南閉伊郡と気仙郡でコレラの大流行があり、教員や優秀な生徒がその対応に借り出されて勉学どころではなくなってしまった。また経費は毎年増加してこの年は初めて1万円を超過した。主因は教員の高給と、臨床実習のための患者の入院治療費である。臨床実習に協力してくれる患者の医療費は医学校が肩代わりするのである。
明治16年に医学士教員が3人となった。そのためこの年の予算額は前年決算を2,000円上回る14,424円となった。一方生徒数は伸びない。入学希望者の少なさもさることながら、退学者が多いのである。この年の退学者は24人。その内訳は、経済的理由14人、東京の学校へ転校5人、病気2人、怠惰のため退学命令2人などである。
明治17年8月にようやく念願の甲種医学校になった。甲種認定のために、医学士教員を増やし、学力不足の生徒の補習をし、16年12月に申請をしたのだったが、なお教則に不備があったため再申請してようやく認定されたのである。明治18年甲種医学校を卒業した2名が無試験で医師開業免許を取得した。
しかしやはり生徒数は少ない。明治18年の在籍者数は83名だが本科は63名で、全国の甲種医学校の中では最も少ない学校のひとつと言える。そして生徒数のわりにはかかり過ぎる経費が問題となって明治19年に廃止となってしまった。
医学校の廃止後も県立病院は存続し、その後、医師・稲野権三郎によって私立病院として運営されたが、これもやがて閉鎖された。こうして県立岩手医学校の歴史は完全に途絶えたのである。