第12話 公立医学校廃止の諸相(1)~共通の要因とそれぞれの事情~

第9話では公立医学校が全国に多数設立され、それが明治20年前後に一斉に消え去ったことと、その理由を述べた。また第10話では廃校第1号とも言うべき埼玉県医学校の事例を紹介した。今回はやはり廃校になった公立医学校のいくつかの例を紹介しよう。

徳島医学校と師範学校令

徳島医学校は明治12年に徳島病院の付属学校として設立された。この時、徳島は「高知県」に併合されていたが、明治13年に「徳島県」が独立して、病院・医学校は「徳島県立」となった。所在地の徳島塀裏町は現在の徳島市幸町3丁目。甲種医学校(無試験で医師免許が取得できる医学校)になったが、明治19年に廃校となった。それは経費がかかり過ぎることが県議会で問題視されたためである。

まず医学校の運営費が他の学校と比べてどれくらい多額だったかをみてみよう。

徳島県では明治18年、経費削減と質的向上のため県内に4校(徳島、脇町、川島、富岡)あった中学校を徳島の1校に集約した。教育水準の向上のためといいながら、実際に廃止された3校の生徒はほとんど退学せざるをえなかった。第一の目的は経費削減であったに違いない。

明治18年度の県内の学校の経費と生徒数から、生徒1人あたりの費用を算出すれば(下の表のc)、医学校の費用がケタ違いに大きいことがわかる。設備・備品等のほか、教員の給与が高いためである。教員のうち最高給の者の年俸は以下の通りである。

明治18年 徳島県諸学校の歳費と生徒数
  • 徳島中学校=720円
  • 徳島高等女学校=480円
  • 徳島師範学校=660円
  • 徳島医学校=1,800円

徳島中学校の教員には法学士と農学士がいる。東京大学法学部、東京農林学校(東大農学部の前身)の卒業生と見られるが、いずれも今日で言えば東大の法学部・農学部である。徳島医学校には医学士が2名、別課卒が1名いる。同じ東大を出ても医学部卒の教員は他学部卒の2.5倍の高給を得ていたことになる。

そして明治18年の県会(県議会)では全般的に支出を削減すべきという議論になり、「徳島女学校及び同医学校の両費目のごときは一時廃案に属し、ようやく再議ののち元に服するに至れり」という状況だったが、翌年11月の県会では“満場一致”で医学校廃止が決議されてしまった。

実はこの年の4月に「師範学校令」が公布されて、師範学校(小学校教員を養成する学校。現在の国立大学教育学部の前身)の充実、その生徒(つまり先生のタマゴ)は全員給費生とすることなどが定められ、師範学校関係の予算が増大することになったことも影響していると見られる。師範学校令は文部大臣に就任した森有礼の学校制度の整備事業の一環である。それ以前の「通則」と比較すると、初等・中等・高等の3レベルを高等に一本化、カリキュラムでは「英語」が新設され、「農業」「手工」が必修化され、「唱歌」は「音楽」(楽器用法を含む)となった。男子の「体操」には多くの時数が配当され兵式訓練が励行された。総授業時数は年間1008時間から1360時間へと35%近くも増加した。近代国家の忠実なる国民の育成が急がれたのである。

そのアオリを食って医学校は廃止されたのである。