第12話 公立医学校廃止の諸相(1)~共通の要因とそれぞれの事情~

長野県医学校と東大医学部別課

長野県医学校は明治11年設置の県立病院内に設置された医員講習所が起源。県内52の各区から1人ずつ給費生を募集し、卒業後は出身区で医療に従事させることになっていた。初年度の生徒はこの給費生が45人、別に自費生10人が集まった。修業年限は4年で、特に優秀な者は東京大学医学部別課に転学させる仕組みもあった。

13年に県立病院付属医学校と改称し、明治15年には長野県医学校(乙種)として独立し、病院をその附属とした。それまでは寺院を教室にしていたが、この年6月には上水内郡南長野町高畑(現在の長野市のJA長野県ビルの地)に校舎を新築落成した。明治17年に初めての卒業生16名が出、東京大学医学部に派遣していた4人も別課を卒業し、また解剖実習も行えるようになるなど、ますます興隆に向かうかと見えた。ところがやはり多額の経費が県会で問題視された。明治15年以降の医学校経費は、設備充実のためか、年額約16,000円で、先に見た徳島医学校のほぼ2倍、生徒数が4~5倍ある岡山県医学校よりもまだ多い経費である。県会で廃止が議決され、明治18年6月に閉校となった。

廃校時の生徒は59人(全八級の合計)いたが、廃校後は、医師開業試験に合格、他の医学校へ転校などで、医師への道を断念したのは僅かであった、と文部省には報告されている。

「済世館」を起源とした福井医学校

キュンストレーキ 福井市立郷土歴史博物館所蔵

キュンストレーキ
福井市立郷土歴史博物館所蔵

福井市の福井市立郷土歴史資料館のロゴマークは男女全身の影絵のように見えるが、これは同館が所蔵するキュンストレーキ(キンストレーキ)という紙製の人体模型を図案化したものである。幕末から明治にかけて輸入された、このフランス製のキュンストレーキは、金沢大学、長崎大学に各1体保存されているものの、男女2体が揃っているのはここだけだという。同館HPによると「男性体が万延元年(1860)、女性体が明治2年(1869)に購入されたもの」と言われ、「福井藩の医学所「済世館」で解剖学を学ぶために使用された」らしいと言う。このキュンストレーキが象徴するように、江戸後期の福井での西洋医学の採用は早かったのである。

文化2年[1805年]福井藩により「医学所」が設置されて、藩内の医師とその子弟に医学を教授し、文化6年には「済世館」と称した。明治2年には、藩校「明道館」から改称した「明新館」に併合されたが翌年分離して「医学所」とした。廃藩置県後の明治5年2月、明新館から分離して福井県立の医学所となった。しかし明治6年には福井県から名前が変わった足羽県が敦賀県に吸収されてしまったため、「私立」としての存続を図り、明治8年には公立(県立ではなく町村立といった意味)の「福井医学所」とした。場所は「佐佳枝上町」。現在の「幸橋北詰」交差点の東側、中央1丁目19番から福井佐佳枝郵便局があるあたりと思われる。

明治9年には敦賀県が消失して石川県に統合されたが公立の医学所は存続した。明治14年に福井県が復活して、医学所は廃止されて福井病院付属医学教場に格下げされた。

再び学校として独立するのは明治17年で、県立福井医学校(乙種)となった。教員は校長(医学士)以下8名、生徒は全学年(4学年8期)合計で80名だった。乙種医学校であるからか、経費は他県にくらべれば少なめだが(明治18年度の地方税支弁は4,782円)、それでも経費削減を理由に廃校が議論されることがしばしばだったが、なんとか存続を続けた。そして勅令第48号のために明治21年3月末に廃止となった。

なお付属病院は福井県立病院として残り、大正8年に日本赤十字社に移管され、現在は福井赤十字病院となっている。

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