第12話 公立医学校廃止の諸相(1)~共通の要因とそれぞれの事情~

外国人医師を招聘した神戸医学校

「兵庫県」は慶応4年5月に設置され、伊藤博文が知事に任命された。廃藩置県(明治4年)以前の「府」「県」は維新政府の直轄地である(府藩県三治制)。慶応3年に兵庫港が開港して、港湾やそれに付随するインフラ整備・維持や治安維持等のために、半官半民の「貿易会社」を設立して輸出入取引額の5%を徴収して積み立てた。これが「貿易五厘金」で、この資金を利用して明治2年4月に神戸病院(県立)が設立された。場所は宇治野村、現在の下山手通8丁目(誓願寺から神戸雅叙園ホテルにかけての辺りか)である。

宇治野村の神戸病院

宇治野村の神戸病院
ジャパンアーカイブス提供

病院には外国人医師を招聘して治療と医学教育を担当させた。米国人ヴェッダー(ベデル)を皮切りに、ハルリス(米)、ベリー(米)、ヘイデン(蘭)と明治14年まで外国人医師の雇用は続いた。医学教育部門は明治9年神戸病院附属医学所となった。明治12年には病院・医学所の経費は貿易五厘金から地方税に変更された。

外国人医師雇用の打ち切りは東京大学医学部による「医学士」の輩出と関係があるだろう。東大で初めて「医学士」が誕生したのは明治12年の10月卒業の20名、その後は毎年20名前後の医学士が卒業していった。第2期目の医学士は明治13年7月に卒業した17名で、その中に神田知二郎がいた。京都府南西部の山間の白栖村(現・京都府相楽郡和束町白栖)で医者の家に生まれたが父が早く死に生活は苦しかった。京都の蘭方医・廣瀬元恭(ひろせげんきょう)に学んだのち「東校」(東大医学部の前身)に入学した。当時の校長・長與専斎は、優秀な学生に学資を支給し、その見返りに卒業後は指定された勤務地に赴くという給費生制度を創設した。現在の「地域枠」や「医学部就学資金」のようなものである。神田知二郎はこの給費生に選ばれ、卒業後公立明石病院長に就任、そして明治15年3月に神戸病院に赴任してきた。外国人医師と入れ替わりに、東大出身の「医学士」が神戸に着任したのである。

同年4月医学所は「県立神戸医学校」に改組され、神田が初代の校長に任命された。神戸医学校は医学校通則に規定する「甲種医学校」に認定され、卒業生は無試験で医術開業免許が付与されるようになった。

こうして順調に発展するかに見えたが、その発展を妨げたのは、他の各地の公立医学校同様、県会だった。明治15年から毎年のように校舎建築費を要求したものの県会は常にこれを否決した。時あたかも松方デフレの時代である。県会の意向は「たとえ借家料千円を要するとも現下の財政上では新築を差し控えよ」であった。

その意向に従うままに、明治12年から弁天浜の旧三井銀行社屋を使用、明治20年には橘通の旧警察署本部の建物(現在、神戸法務総合庁舎が建つ場所)と、「借家住まい」が続いた。

明治20年政府は地方財政の安定化と、医学教育の水準向上のため、地方税の医学校への支出を禁ずる勅令第48号を通知した。神戸医学校は廃止と決まり、その備品等の財産は売却された。在学生の多くは、岡山県立医学校(官立に移管されて第三高等中学校医学部)に転学した。

神田知二郎は病院長の専任となったが、肺を病んで明治22年3月36歳の若さで没した。教え子らは早世した師を偲ぶ石碑を廣嚴寺(楠寺。現在の神戸大学楠キャンパスの東隣)の境内に建立した。撰は神田の恩師・長與専斎。この石碑は修復されて現在は神戸大学楠キャンパスの神緑会館の庭にある。

附属病院は一時民営化の話が持ち上がったが県立病院として存続し、明治33年には現在地に新築移転した。それから44年後の昭和19年、兵庫県立医学専門学校が設立されるとその附属病院になり、県立医専の後身である兵庫県立医科大学が昭和39年国に移管されて神戸大学医学部となり、病院は医学部附属病院となって現在に至っている。

(第12話おわり)

執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)