私立病院から発展した広島県医学校
広島県の医学教育は有志の医師数人が私立病院を設立したことに始まる。明治5年5月のことで、「躋壽館(せいじゅかん)」と称し医学教育も行った。明治10年5月広島区水主町に校舎を新築し、7月に広島県医学校として開校した。校長は豊岡藩士で慶応義塾を出て文部官僚となった吉村寅太郎。副校長は後藤静夫で、もと藩医で「躋壽館」設立者のひとりである。医学校は修業年限3年、日本語による講義で医師速成を目的とした。給費生定員50名、他に私費生も募集した。11年3月、医学校を県立病院の附属とし、病院長に就任した須田哲造が吉村に代わって校長を兼任した。須田は長野県出身で、東大医学部本科の最初の卒業生(明治9年)のひとり。ただしこの年の卒業生は明治4年の編入措置により本科を途中から学んだため「医学士」の称号は与えられなかった(のちに「準医学士」となる)。
明治13年12月に初めての卒業生14人が出て内務省の医術開業試験を受け翌年4月に免状が交付された。15年に医学校通則が公布されると、明治16年には甲種医学校として認可された。
松方財政による不況が深刻になり「金融閉塞・民力疲弊」となって、校費は次第に削られるようになったが、広島医学校は充実していた。明治18年の生徒数は111人。これに対して教員は11人であった。医学士3名、医学部別課卒1名、製薬学科卒2名、博物学1名、解剖学1名、本学卒業者1名、その他2名である。隣の岡山県医学校は生徒数265名、教員10名であって、教員数対生徒数では広島の方が恵まれていたと言える。ところが校費の規模は広島が約5,500円に対し、岡山は約13,000円と倍の差があった。岡山の生徒は自費生・貸費生がほぼ半々で、給費生を中心とした広島とは異なる。この違いが予算規模、そして設備等の差になり、ひいては官立移管の選に漏れることになったのかも知れない。勅令第48号を受けて広島は廃校となり、岡山は官立に移管されて第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部の前身)となった。