第12話 公立医学校廃止の諸相(1)~共通の要因とそれぞれの事情~

松山医学校に反対した讃岐

愛媛県では江戸時代末期、藩校「明教館」に医学所が設置されていたが廃藩置県で廃止された。明治7年7月松山市二番町に「仮病院」が設置され、医学校を附属した。12月に小唐人町(現・大街道。松山東雲学園敷地)に移転して「県立松山病院収養館」と称した。その病院長・教授の紹介を陸軍医監・松本良順に依頼した。松本については第1話・第2話で述べた。長崎でポンペに師事し、その教育法を江戸の医学所に導入した人物である。松本が推薦したのは南部精一と太田雄寧(ゆうねい)だった。南部は会津藩出身、長崎で松本の門人としてポンペの教育を受けた。太田は清水徳川家侍医の子。松本が頭取をしていた江戸医学所で学び、戊辰戦争に際しては松本に従って幕府軍に従軍した。また松本が東京の早稲田に開設した蘭疇塾(らんちゅうじゅく)の塾頭も務めた。

松山病院付属の医学校は初年度55人の生徒でスタートしたが、常に生徒不足に悩み、一時閉鎖されることもあった。明治15年に医学校通則が公布されると県は、病院付属の医学校を独立させ、甲種医学校とすることを目指さし、医学校費10,380円の予算を県会に提出した。しかしこれは主として讃岐出身の議員が反対した。讃岐とは今の香川県である。この当時の香川県は愛媛県に併合されていたのである。医学校のある松山市は県域の西の端であった。讃岐地方の生徒はむしろ大阪などの関西へ遊学する方が便利であるというのが医学校設立反対の理由だった。讃岐出身の議員の理解を得るため、当局は、甲種医学校を断念して乙種医学校に計画を変更、計上予算を6,770円にまで圧縮してようやく県会の承認を得た。

こうして愛媛県松山医学校はようやく明治16年秋に設立され、84名の生徒を集めて翌年1月から授業を開始した。ところが翌18年には生徒はほぼ半減の48名となってしまった。これは甲種ではなく乙種であること、授業料は本人負担であるため、第9話で述べたように松方デフレで地方経済が疲弊し、学費が調達できずに多くの生徒が退学していったためである。

明治19年県は突然に廃校宣言を出した。