第8話 大阪・長崎の医学校の廃止と東大独裁体制の完成〜ドイツ医学の全国普及〜

長崎医学校の廃校

しかしこの長崎の医学校も明治7年に廃校になってしまう。その顛末は以下の通りである。

明治4年に台湾先住民が、漂着した琉球島民を殺害したことなどを理由に、明治7年4月政府は台湾に出兵した(「台湾出兵」また「征台の役」とも)。その戦役で発生した傷病兵を収容する病院が必要となり、同年10月長崎医学校を廃止し、病院を接収して兵員病院「蕃地事務局病院」とした。医学校の学生は東京医学校に転学し、学校付属の備品類も東京医学校へ送付された。

長谷川 泰(日本医科大学提供)

長谷川 泰(日本医科大学提供)

この「事件」の時の長崎医学校校長は長谷川泰(たい、やすし)であった。長谷川の名は第4話第5話であげておいた。東大医学部の前身である医学校兼病院(のち大学東校)の教員であり、相良知安の腹心の部下で、一時校長職に就いたこともあった。長崎医学校の校長を罷免された後は、東京で私立医学校「済生学舎」を設立し、1万人の医師を誕生させ、日本医科大学、東京医科大学、東京女子医科大学の源流をつくり出した人物でもある。そしてこの人物はなかなかの奇人変人であった。

相良知安の失脚(第6話)の直前、長谷川は長崎医学校の校長に左遷された。発令は明治7年8月、着任は9月末であった。『済生学舎と長谷川泰』(唐沢信安・著)によると、長谷川は赴任する段階ですでに長崎医学校の廃止について承知していたという。「勿論、泰は自分の役目が長崎医学校を東京医学校に吸収合併し、その学生を東京医学校に転学させる使者であることを知っていた」というわけだ。わざわざ東京から転任させるのだから、そうした使命があったのだろう。

長崎医学校の廃校は、長谷川自身に、特にその特異な性格、「感情のみを以て事に当たる性格」に原因があるというのが『長崎医学百年史』の語るところである。第三章第十七節にはこうある・・・「第二次の傷病兵を輸送してきた高砂丸が台湾より長崎に到着したのは十月十六日であった。この傷病兵若干を収容する施設に当てられたのが長崎病院である。これは全く臨時的な措置であったが、長谷川泰は文部省当局の交渉を悪意に解し、自らの過去の不満を爆発せしめて、この収容を拒絶したのである。そこで前記のような長崎医学校長の罷免や長崎医学校の廃止が起こったのである」。

確かに、文部大輔田中不二麿が長谷川宛に「病人六百人あり。速やかに入院差し支えなきよういたすべし」と電報を打っているのだから、傷病兵収容になにか遅滞やトラブルがあったことは想像できる。田中と喧嘩して「芋が煮えたもご存じない徒輩の下にいるのは嫌いだ」と言って官職を辞したのだという話も伝わっている。

いずれにしてもポンペと松本良順によって始められた長崎の医学教育は17年でとぎれてしまった。大阪と同様長崎医学校も、関係者の努力でやがて公立医学校として再興される。それは全国的に公立医学校が陸続と設立される時代の幕開けである。臨床医の速成が各地で行われるようになるのである。その教育を担う者は「医学士」すなわち東京大学医学部の卒業生である。東大は、医学研究・医学教育・医療行政の指導者を養成する唯一の機関となった。そして外国人教師から教授されるドイツ医学が、「医学士」を通じて全国の公立医学校へと普及していくのである。公立医学校については次話で取り上げるが、その前に東京医学校=東大医学部の発展状況を確認しておこう。