東京医学校から東京大学医学部へ
学制の公布(明治5年)で「東校」から改称した「第一大学区医学校」は、更に明治7年「東京医学校」と改称し、明治10年には東京開成学校(かつての南校)と合併して東京大学医学部となり、更に明治19年には帝国大学医科大学となる。
この間、唯一の官立医学校として整備が進んだ。まずは外国人教員の増員である。これは前述の拡充計画の通りである。上図は大学東校から東京大学医学部の時代の外国人教員の一覧である(製薬学科、予科担当も含む)。明治6年から増員が進んだことがわかる。しかしピークは明治13年あたりまでで、その後は減少していく。これは優秀な卒業生をドイツに留学させ、帰朝後に教授に就任させるというサイクルが確立したからである。明治14年卒業の森林太郎(鷗外)は卒業席次が8番だったため大学派遣の官費留学生になることはできず、陸軍軍医としてドイツに留学したのだった。
外国人教員は高額で雇用されており、その給与の総額は医学部予算の3分の1に達したという。西南戦争(明治10年)以後の財政逼迫は、いつまでも外国人教師に頼り続けることを許さなかった。
ミュルレル着任直後に廃止された医師速成課程は明治8年に「普通医学教場」として復活した。本科生・予科生は全員寄宿舎住まいであり、この速成課程の学生は通学してきたから「通学生教場」と呼ばれるようになった。のちに寄宿舎が満杯となって本科生・予科生でも通学するものが出てきたため、速成課程は「別課」と呼ばれるようになった。この課程は日本語で教授をし、修業年限は3年半(のち4年)である。東京大学の本来の(医学士という医学・医療の研究者・指導者を養成する)学科ではなく、一般的な西洋医を速成するための臨時措置的なものと考えられていたから、明治18年に募集停止となり、22年に廃止された。この間1,500名の卒業生を出し、西洋医学の普及に大きく貢献した。明治19年に東京大学は帝国大学となる。その移行のために、傍系的課程(医学別課、法学別課、製薬別課、予備門など)が整理されたのである。
本科の最初の卒業生は明治9年であるが、彼らは編入措置によって入学したのであったため「医学士」の称号は与えられなかった。「医学士」が誕生するのは明治12年である。次回に述べるように明治10年ころから全国で公立医学校設立ブームが起こった。それらは東京大学卒業生を医学校校長・病院長として招聘したが、「医学士」誕生以前は明治9年卒業組を校長・院長に据え、12年以降は「医学士」がその後を襲うという例が見られる。また明治15年に公布された「医学校通則」では、医学校には必ず「医学士」を招聘しなければならなくなったので、医学士は引っ張りだこ、高給をもって地方医学校・病院へ赴任していった。
明治9年11月東京医学校は、下谷の藤堂邸から、本郷富士見町の新築校舎に移転した。もともとは上野の寛永寺跡に移転する計画だったのだが、ボードウィンが上野は公園にすべきと主張したため、本郷の加賀藩上屋敷跡に計画変更されたことは第6話で述べた。
※「東大医学部外国人教員の在任期間」は『東京大学百年史』にもとづき作成。「東京大学医学科本科の卒業生数」は、『東京大学医学部一覧』(各年度版)、『東京帝国大学五十年史』、『東京大学百年史』をもとに作成。
(第8話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)