長崎の師弟が大阪で医学校
大阪大学医学部の直接の起源は明治元年12月[1869年2月]に発足した「仮病院」である。これは大阪府知事の後藤象二郎や小松帯刀の発案で設立されたもので、診療と医学教育をおこなった。この仮病院の発足に当たって適塾関係者が多数採用されたというのが、大阪大学医学部と適塾を結ぶ糸のようだ。
大阪府仮病院の医学教育は上本町の大福寺を仮校舎として始められた。仮病院院長は洪庵の実子の緒方惟準(いじゅん、これよし)、教師はボードウィンである。この2人の名前はすでに第3話で登場した。長崎で本格的医学教育を始めたポンペの後任がボードウィンであり、その生徒が緒方惟準である。惟準は、長崎で任期を終えて帰国するボードウィンに連れられてオランダに留学したが1年経たずに幕府が瓦解したので帰国、東京の「大病院」(東大病院の淵源)の取締に任じられたものの、「二君に仕えず」という思いからか、3ヶ月ほどで辞任して帰阪したのが明治2年の1月だった(第4話参照)。
維新前後のボードウィンについては第5話で述べた。江戸に海軍病院を設立してボードウィンを雇用するというオランダと江戸幕府の約定は新政府が引き継がねばならない。東京では「医学所」と「大病院」を合併して「医学校兼病院」ができようとしていたが、ここの教授職にはイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが就いているのでボードウィンのポストはない。
そこでボードウィンには大坂府仮病院のポストを与え、そのパートナーとして、ボードウィンと縁の深い緒方惟準を院長に担ぎ出した、ということのようだ。それらの狂言回しは医学取調御用掛に任命された岩佐純と相良知安だった。緒方の帰阪、ボードウィンの来阪はともに明治2年の1月、岩佐・相良の御用掛任命は同じ1月の22日。岩佐・相良はこの後東京で医学教育の大枠をつくっていくのだが、それに先立つ最初の任務が大阪でのボードゥイン事案だった(第4話参照)。
明治2年7月に仮病院は法円坂の鈴木町代官屋敷跡に移転して8月には「大坂府医学校病院」となった。刺客に襲われた大村益次郎が運び込まれて、ボードウィンの懸命の処置にもかかわらず絶命したのがこの病院である。ここは現在、国立病院機構大阪医療センターの敷地となっていて、「大村益次郎卿殉難報国之碑」が南東角に建っている。
ボードウィンは明治3年6月に契約終了により任を離れた。このあと帰国直前に東京の「大学東校」で講義し、上野を公園にすることを進言するなどしたことについては第5話で述べた。大阪ではボードウィンの後は、やはりオランダ人のエルメレンスが着任した。
この時期の管轄は府か、国か、判然としない。「大阪府管轄とはいいながら、学則や人事だけでなく、毎月の経費を全額国庫に依存しており、実質は官立医学校と変わらない」(『京都大学百年史 総説編』{p22})状況だったようだ。なお、明治4年の廃藩置県以前は「府藩県三治体制」であり、「府」と「県」は政府の直轄地であったから、府立か官立かを問うことはあまり意味がないのかもしれない。廃藩置県後に文部省ができると文部省管轄となった。明治5年の学制発布により、「第四大学区医学校」と改称した。この時点で官立の医学校は東京の「第一大学区医学校」、長崎の「第六大学区医学校」(のち学区改編により「第五大学区医学校」)のあわせて3校が存在していた。
(第7話おわり)
執筆者 坂口 幸世
(代々木ゼミナール主幹研究員)